2004.3.2

東京大空襲の前後

                                                                増田 次郎
建物の強制疎開

空襲が始まる前に家屋の密集地帯で、一部の家屋が取り壊されました。

当時強制疎開と呼んでいたと思います。

私ども中学生は手伝いに動員され、警防団(空襲に備える民間の防衛組織)と共同で、

商店や住宅を取り壊しました。

後で空襲を受けた地域の方は、命に別状がなく家財道具が持ち出せただけ焼けるよりは

増しだったと思いますが、焼けなかった地域の方は本当にひどい目に合われたわけです。

立派な建物をかけやなどでたたき壊し、最後はロープをかけて大勢の人が引っ張って引

き倒しました。お家の方がご覧になったら、さぞ涙がこぼれたことでしょう。


東京が焼け野が原になるまで


まずサイレンが確か1分間だったと思いますが連続して鳴らされます。

これが警戒警報です。真っ暗な中でラジオをつけて聞き耳を立てて待っています。

そのうち「敵機の編隊は首都方面に向かっている。厳重に警戒せよ」などと放送があり、

空襲警報が出されます。

サイレンが割に短い間隔で断続して鳴らされ、何とも嫌な音でした。

最初は私の住んでいた世田谷区には敵機が来ず、有名な3月10日の下町大空襲は大変

なことになったと噂で聞いただけでした。

私の同級生の中には野次馬根性でわざわざ下町に見に行き、すごかったと報告したもの

もいました。私は戦後昭和20年の末ぐらいに隅田公園まで見に行きました。

公園の中には林のように公園の縁石が立ち並び、そこに墓標代わりに亡くなった方のお

名前が書かれていました。私が焼け死なないで済んだのは単に運がよかったからで、運

が悪ければこうして当時の様子を皆様に書き残すことは不可能だったわけです。

下町大空襲の翌朝も多分空は煙と煤で真っ暗だったと思いますが記憶にありません。


それから2ヶ月余で、ついに東京の西部も空襲を受けました。私の記憶に間違いがなけ

れば、確か5月24日と25日の二晩、連続で空襲がありました。

24日は南部の品川・大森・蒲田方面に火の手が上がるのが見えました。

ところが25日は火の手が上がるのが段々私の自宅の方に近づいてきて、ついにわれわ

れの頭の上を通り過ぎ北からも火の手が上がり始めました。これはいよいよ来るなと覚

悟をしていました。

焼夷弾は何百発か束になって落とされ、それが地上に近づいたところですさまじい爆発

音と共にばらけて、われわれの頭上に雨のような音を立てて降り注いでくるのです。

最後にわれわれの頭上で立てるザーッという雨のような音の恐ろしさは、一生忘れるこ

とができません。


焼夷弾は庭に落ちただけで、わが家には1発も当たりませんでした。運がよかったとし

かいえません。後でわかったのは私の家が焼けた地域との境だったことです。

北側には道路があり、消火中は向かい側がどうなっているか全くわかりませんでした。

東隣の家との間は1mぐらいしか離れておらず、こちらからの類焼防止に必死でした。

どのくらい時間がかかったか全く記憶がありませんが、隣家のトイレで火が止まり、ト

イレの建物を押し倒しようやく我が家は焼け残りました。

それから北側の道路に出て驚いたのは、道路の向かい側の家が全部焼け落ちていたこと。

その向こうに見えていた旭小学校が全焼していたこと。友人のK君の家に見舞いに行こ

うと思ったが、熱くてとても歩けなかったことでした。

暫くしてご近所の奥さんが肩に焼夷弾の直撃を受け亡くなられたことを聞きました。

ほかにはご近所で亡くなられた方はありませんでした。

すから私の空襲体験は下町大空襲に比べれば、何にもなかったようなものです。

後からK君がやはり焼けずに済んで訪ねてきました。本当に運がよかったと思います。


私の中学の同級生のS君は焼け出されて移転した先でまた焼け出されて、最後に永福町

でまた焼け出されました。永福町に移るとき「名前がよいからこれでもう大丈夫だ」と

威張っていましたが、またしても焼け出されました。同級生が「お前が来ると空襲を連

れてくるから、俺のうちの近所に来るなよ」といじめ、彼もしょげかえっていました。

3回焼け出されると完全に無一物になったと思います。

またT君は田園調布で焼け出されましたが、顔にひどいやけどを負いました。

クラス一の美少年だった彼は気の毒な目に会いましたが上品な顔立ちは変わらず今も元

気でおられます。私の友人知人は一人も空襲で亡くなった方がなく運のよいことでした。


5月29日には白昼に横浜が大空襲を受けました。

白昼B29の大編隊が次々にわが家の上空を通り西南に向かいました。

間もなくその方向からすさまじい黒煙が上がりました。

横浜市はこの一撃で全滅的な被害を受けました。

私が入学した横浜のK航空工業専門学校の同級生には、この空襲でお母さんと妹さんを

亡くした人がいました。動員先の工場の寮で同室だったこの人は「お袋も妹も焼け死ん

だ。この戦争は負けだ。皆死ぬんだ」と泣くので、皆ほとほと閉口しました。

「大丈夫だ。きっと勝つ」と慰めようとしましたが、本当に気の毒で気が滅入りました。


専門学校の勤労動員先は磯子区杉田の石川島航空機でした。

零戦や偵察機の彩雲に搭載するエンジンを製作しており、そこの試運転工場で作業をし

ました。上大岡の寮から電車で杉田まで行きそこから工場まで整列して歌を歌いながら

行進しました。何しろお腹が空いていて、工場の食堂で昼食をするのですが一緒に働く

海軍の水兵は円筒形のどんぶり、われわれ学生は普通のお椀型のどんぶりで容積が半分

ぐらいしかなく、いつも羨ましくかつ恨めしく思いました。

どんなおかずが出たか何も思い出せませんが、肉など出るわけがなく慢性的な飢餓状態

で暇があれば寝そべっていました。


8月15日は横浜の寮から自宅に帰っていました。

正午に天皇陛下のいわゆる玉音放送で終戦の詔勅を聞きました。

二三日前から「戦争は負けだ。日本は降伏する」という噂が流れていて全く意外感はあ

りませんでした。その晩灯火管制の必要がなくなり、暗幕を外して明るいところで食事

をしました。「明るいところでご飯を食べると美味しいね」と家族で話し合いました。


思えば大変な時代でした。愚かな戦争をしたものです。

明治維新以来先人たちが営々と築き上げてきた「大日本帝国」は滅亡しました。

私は「大日本帝国」を築いたのは幕府時代に生まれた人たち、滅亡させたのは明治生ま

れの軍人、政治家、官僚。

戦って死んだ人は大半が大正生まれの人々だったと思っています。

そして戦後復興の最前線で戦ったのが大正生まれの人々だったと思っています。

決めつけてはいけませんが明治開化期の教育が本当に正しかったのか。

旧幕府時代の儒教教育の方がよかったのではないかと思います。

論語、孟子を学んだ人々が和魂洋才で正しい判断ができたのではないか。

小学校から英会話やパソコンを教えるのが本当によいのでしょうか。

どうも現在の教育はジェンダーフリーなどと英語らしく聞こえる実はカタカナ言葉で、

援助交際や淫行をごまかしているのではないかと思いたくなりますが、どうでしょうか。

空襲の話から外れました。次は戦後の混乱期に話を移します。             目次へ