2004.2.12
戦争中の中学生時代(その2)
増田 次郎
私が中学2年生だった昭和17年6月にミッドウエー海戦がありました。
勇ましい軍艦マーチの曲が流れ敵に大損害を与えたと大戦果を強調したのに続いて、
わが方の損害は小型航空母艦1隻喪失、航空母艦1隻大破と発表されました。
無敵海軍の航空母艦が沈没したのかとがっかりしたのを覚えています。
しかし事実は虎の子の航空母艦4隻(加賀、赤城、飛竜、蒼竜)が全部沈没してしま
っていたのです。それまでは勝ち戦だったので嘘をつく必要もなかったのですが、そ
れからは全部つじつま合わせに嘘をつくしかなくなりました。
そんなことは全く知らずに戦争は勝つものと信じていたのですから、非民主主義国家
というのは恐ろしいものです。連合艦隊司令長官の山本海軍大将が開戦時に「半年間
は暴れてご覧に入れるが、その後はどうなるかわかららない」といったそうですが、
その通りになってしまったのです。
その後は、ソロモン群島ガダルカナル島の敗戦(島にいた敗残兵を退却させるのに転
進という表現を使いました)から始まり、次々に負け戦が続きました。ガダルカナル
島はまだ敗残兵を救出するだけの戦力があったのですが、その後は北のアッツ島を皮
切りに玉砕と称して島々を守っていた守備隊は米軍が上陸すると全滅するまで戦いま
した。食料弾薬の補給もなく、負けるに決まった戦いを戦い抜いたのですから、亡く
なった方々は本当にお気の毒でした。
前回述べた通り、中学生も昭和19年からは工場に勤労動員(こういう言葉は今では
死語ですね)に行きました。島さんは私より3才年上ですから、勤労動員でも私より
大変な仕事に就かれたようで、私の書いたものをご覧になって3年違うと随分違った
経験をされたのですねと言っておられました。
私のいた工場では5時頃退社する時に雑炊をどんぶり一杯食べさせてくれました。
食べ盛りの時代でしたから嬉しくていまだに忘れません。
私の学年で一番勉強がよくできたのは、増見利清君です。
増見君は勉強だけでなく運動でも優れていました。軍事教練の時はサーベルを下げて
分列行進の時は抜刀して颯爽と号令をかけていました。
彼は学業成績が優れていただけでなく人柄が優しく友人思いで、彼を慕っている同級
生がいました。増見君は中学4年生で海軍兵学校に入学しました。
終戦後に復員して鎌倉大学校を経て新劇の世界に入り、演出家として活躍して数年前
故人になりました。私は学年は同じでしたが一度も同級にはならず、親しくお付き合
いする機会はありませんでした。成績のよいだけの人だと思っていたのですが、それ
は誤解だったようです。早くなくなってしまったのは残念なことでした。
勤労動員を受けたまま、3月が来て中学を卒業しました。
私たち昭和3年生まれはいつも過渡期を歩く運命でした。
小学校最後の(国民学校になる前の)卒業生だったことは前に書いた通りです。
旧制中学校は修業年限が5年だったのですが、私たちは全員4年で卒業しました。
全員が4年で卒業させられたのは私たちの学年だけでした。
上級学校の入学試験は全ての学校を3グループに分けて行われました。
私は体操、武道、教練が全て苦手で、これらの成績はクラスで最低でした。
一方英語、数学、物象(物理化学)国語などはまとめて一つしか点数がつかないので、
成績順位は下から数えた方が早くなりました。内申書で合否が決まるので、下から数
えた方が早い子供はどこの学校も入れてくれません。
やっと3期校だった横浜のK航空工業専門学校発動機科に入学を許可されました。
上級学校に入学しても6月一杯は中学時代の動員先工場でそのまま働くことになり、
そのまま青物横丁の工場に通っていました。
次回は東京の空襲の話を紹介しようと思います。 目次へ