2004.1.31
戦争中の中学生時代(その1)
増田 次郎
小学校を卒業したのが昭和16年3月。
入学した中学校は明治学院中学部(現在の明治学院高等学校です)でした。
明治学院は当時から米国の長老派協会が後援するミッションスクールで、毎朝チャ
ペルで礼拝があり、授業でも聖書の時間がありました。
構内には何軒もの宣教師館があり、大勢の米国人宣教師がおられました。
1年生の1学期だけ年配の米国人のご婦人から少人数で英会話を習いました。
夏休みに日米関係が緊迫し米国人は全員引き上げられました。もし戦争がなかった
ら、英会話の授業が続けられ私はもう少しは英語がうまくなっていたでしょう。
さて入学してもクラブに入る気がなく、ほったらかしにしていたら先生からどこか
に入れと言われ、何となく弁論部に入りました。
演説術を学ぶ部で、上級生にはやさしい人が多く居心地のよいクラブでした。
最上級生だった5年生のAさんはクリスチャンで、特に優しい方でした。明治学院
の生徒は英語と音楽ができなければダメだといわれました。戦争直前の反米英意識
の高い時期に、ほかの学校では見られなかったことではなかったかと思います。
11月から12月にかけて日米関係はますます緊迫の度を加えていました。
12月8日の朝、いつもの通り学校に行き礼拝に出席しました。
いつもの通り先生が壇上でお祈りをしたのですが「今ワシントンで日米交渉が行わ
れていますが、どうぞ神様戦争にならないように平和をお守り下さい」といわれた
のを今でもはっきり覚えています。
実はその時には既にハワイ空襲が終わっていたのでした。
昼休みに校庭に全校生徒が集められ、宣戦の詔勅のラジオ放送を聞きました。
「天佑を保有し、万世一系の----朕ここに米英両国に対し戦いを宣す」で始まる詔
勅が中村アナウンサーによって読み上げられ、日本は負けるに決まっていた戦争に
入ってしまったのです。日本にも、最後まで平和を求めている大勢の人がいました
が、その祈りは届きませんでした。
われわれ中学生は昭和12年の「シナ事変」から続いていた閉塞状態が打ち破られ
たことと、緒戦の大きな戦果に喜んでいました。
日本は必ず勝つのだと思いこんでいました。
日本は開戦から約半年間は連戦連勝しました。開戦翌年の4月に米軍は航空母艦か
ら飛行機を飛ばして東京を空襲しました。確か土曜日の昼過ぎだったと思います。
帰宅途中で玉川電車に乗り大橋まで来たとき、空襲警報が鳴り電車が止まって乗客
は全員降ろされました。高射砲の音を聞いただけで米軍機の姿は見えませんでした。
この空襲では早稲田実業が空襲を受けたということをずっと後になって聞きました。
この米軍の飛行機はボーイングB17という大型の陸上機で、空襲後は空母に戻る
ことにはなっておらず、中国本土に着陸したそうです。この空襲には全く不意を討
たれ、日本の軍部は非常なショックを受けたようです。これが日本が敗戦に向かう
序曲だったと思われます。
私の1年後輩に榎本えいいち君という生徒が入学しました。
この人は当時の喜劇王榎本健一さん(愛称エノケン)の一人息子さんでした。エノ
ケンの息子だというので、私たちいたずら坊主は教室に彼を見に行きました。
眼鏡をかけた小柄な少年だったように思います。一度お父さんのエノケンさんが学
校に来ました。「エノケンだ。エノケンだ」という声を聞いて走って行きました。
エノケンさんは緑色の背広を着て付け人を従えて歩いていました。
中学生が大騒ぎをするので、閉口しておられたのを思い出します。
エノケンさんは不運な方で、えいいち君は中学を卒業するかしないかで病気で亡く
なりました。エノケンさんは病気で晩年に足を切断されたそうです。喜劇の名優だ
ったのにお気の毒なことでした。
昭和17年の夏頃を境に、戦争は次第に旗色が悪くなりました。
日本本土は米軍の潜水艦で海上交通が遮断され、物資不足、さらにはひどい食糧不
足に苦しみました。また南洋の島々が次々に米軍の手に落ち、サイパン島から日本
本土に米軍機が飛来するようになりました。昭和19年の秋にはB29爆撃機が日
本の上空に偵察に来ました。B29は東京の澄み切った秋空に、飛行機雲を引きな
がら悠々と飛んで行きました。1万メートルぐらいの高空を高速で飛んで行くので、
日本軍は手も足も出ませんでした。はるか下を高射砲の煙がぽんぽんと空しく流れ
ていました。
敗色が次第に濃くなっていた昭和18年の12月に文科系の大学、専門学校生の徴
兵延期制度が廃止され、学業半ばで戦場に行くことになりました。
いわゆる学徒出陣です。「ペンを捨て剣をとる、腕はたくまし」という歌が町で流
れていました。神宮外苑競技場の雨中で行われた壮行会の光景はテレビで何度も放
映されたから、ご覧になった方も多いと思います。
私の兄もこれで海軍に行きました。海軍航空隊を志願した兄貴に、父は「あいつは
もう帰ってこない。ばかなやつだ」と嘆いていたのを思い出します。
一番危険なところに行ったはずの兄は、最後まで本土にいて最後は特攻隊の士官と
して岡山県の倉敷海軍航空隊にいました。お陰で終戦から間もなく無事に帰ってき
ました。人間の運命とはわからないものです。
昭和19年の7月から明治学院中学部も4年生、5年生は軍需工場に勤労動員に行き
ました。私は品川の青物横丁にあった東京ラジエーターに行きました。それでもま
だ当時は映画館もあり、戦争映画だけでなく、「姿三四郎」や板妻の「無法松の一
生」などの映画を見た覚えがあります。
その秋あたりに工場でいやな地震がありました。防火用水のドラム缶の水がどぶん
どぶんと溢れ出ました。どこか遠くで大きな地震があったのではないかと思いまし
たが、公式な発表は何もありませんでした。名古屋の方で大きな地震があり大変な
被害が出ていたのを知ったのは戦後のことです。
「日本は正義の戦を戦っているのだから、いずれ神風が吹いて日本が勝つ」と軍は
宣伝していましたが、この地震はまさしく神風の逆、泣きっ面に蜂でありました。
余りに長くなりますので今回はここまでにさせて頂きます。 目次へ