2004.1.15
私の小学校時代



                                                              増田 次郎

先輩の真似をして小学校時代の昔話(老人の繰り言)をご披露致します。

私が東京に出てきたのは昭和12年の春。当時の東京市、世田谷区第四荏原小学校

の三年生になりました。満州はいわゆる標準語でしたが、東京は「ひ」と「し」の

区別ができない東京弁。転校生は早速言葉尻をとらえてのいじめ、からかいの標的

になりました。割に体が大きく、勉強もまあまあでしたから風当たりが軽くて済み

ましたが、結構大変でした。


第四荏原小学校は歴史の新しい小さな学校でしたからプールもなく講堂もなく、行

事で生徒を集めるときは2階の普通教室をぶち抜いて低学年と高学年の二回に分け

て集まっていました。私の学年は1クラスが約60人、男女単独が各2クラスでほ

かに男女混合が1クラス、合計5クラスで1学年だけで約300名いました。

これが1年生から6年生までいたのですから、全校で約1,800名いたわけです。

どこの小学校も似たような規模のマンモス学校でした。

私が卒業した昭和16年春、教育制度が変わって小学校は国民学校になり、太子堂

国民学校と呼ばれるようになりました。

現在は太子堂小学校で第四荏原の卒業生は私が最後です。


私の小学校時代は戦時中で次第に物資が欠乏してきていましたが、まだまだ欠乏の

程度は軽かった時期です。

3年生の遠足は下高井戸から京王電車で京王閣という遊園地に行きました。

4年生は横浜港と三渓園、5年生は鎌倉、6年生は修学旅行で京都・奈良と伊勢神

宮に行きました。


小学校3年生の7月に日中戦争が始まり、大場鎮陥落だとか南京陥落などといって

提灯行列がありました。愚かな戦争の始まった時期でした。


大相撲では大横綱双葉山の全盛時代でした。しかし余りに強すぎてもう一人の横綱

玉錦に人気が集まっていました。

玉錦の死後双葉山の連勝がストップしたのも私の小学生時代だったと思います。立

浪部屋の全盛時代で、双葉山、羽黒山、名寄岩、旭川といった名力士が立浪四天王

と呼ばれ顔を揃えていました。

プロ野球は人気が全くなく、見たこともありませんでした。人気は断然東京六大学

。早慶戦はラジオにしがみついて慶応を応援していました。まさか後年早稲田に進

学するとは思ってもいなかった時代です。


5年生ごろまでは受験のための補習授業を公立小学校でもやってくれ、先生が指名

した子供だけが居残り勉強をしていました。しかし受験勉強の弊害が叫ばれ出した

ためでしょうか、取りやめになりました。小学校から中学にかけもっと勉強してい

たらと、後悔先に立たずの思いがあります。                   目次へ