2003.12.31
安東県の思い出
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           増田 次郎


「もういくつ寝るとお正月」という童謡がありました。

私も子供の頃はお正月が待ち遠しかったのですが。「今はもう(頭も手足も)動かない

古時計」になってしまいました。(動くのは口だけ)


安東県の頃は私も小学生。そのころお世話になった小児科のお医者様に戦後東京でお目

にかかりました。先生の奥様は父の勤務した会社の元女性事務員で、私のことをよく覚

えていて下さいました。奥さんは私のことをご覧になって、「あらあなたが次郎さんで

すか。色の白いかわいい坊ちゃんでしたのに」といわれ大いにショックでした。よほど

「今はどうですか」と聞きたかったのですが、生来の内気な性格が災いし黙って爪を噛

みながら帰りました。(嘘つけ)


安東大和小学校には2年生まで通いました。

あのころの同級生とはその後一度も巡り会っていません。別れた8年後に太平洋戦争は

日本の敗戦で終わりました。海外、特に満州朝鮮におられた日本人は大変な思いをなさ

ったはずです。全財産を失っても無事に日本に帰れた方は運がよい方で、大勢の方が命

を落とされたと思います。今考えても辛い悲しい時代でした。


日本人だけでなくあのころ父と同じ会社にいた現地の方たちにも過酷な運命が待ってい

たかも知れません。私たちがチャンセンションと呼んで親しんでいた張先生もその後ど

うされたかは全く不明です。


親の代から満州、朝鮮に長年住んでいて、現地の学校を卒業して三井物産に入社された

倉田さんという方のことを覚えています。

倉田さんはお父様を亡くされ、母一人子一人で育たれた方で、お母様は当時朝鮮に住ん

でおられました。我が家が東京に戻った後、倉田さんは軍に召集され、戦地からよく父

宛に手紙をよこしておられました。倉田さんは比島方面派遣軍の垣兵団に所属されてい

ました。戦後わかったことですが、垣兵団はフィリピンのレイテ島守備隊で米軍の猛烈

な艦砲射撃を受け一夜にして全滅したといいます。

親子とも私の父とは大変親しくしておられた方なので日本の土を踏めば便りがあったは

ずです。便りがなかったということはお二人とも異国の土になられたものと思われます。

父は生前倉田君は気の毒だったと述懐していました。そしてお母さんが倉田君の戦死を

知らなかったということは、むしろお幸せだったかも知れないと目を潤ませていました。

父の部下でこういうことになられたのは倉田さんだけでした。

でも私が知っているのは過酷な運命を辿られた方々のほんの一部だけで、もっと多くの

方が犠牲になられたのは間違いないことです。こういう方々の犠牲の上に今日の日本の

繁栄が築かれていることを忘れてはならないと思います。


2003年の語りべ話はこれで終わり。皆様お元気で新しい年をお迎え下さい。

                                                                       目次へ