2003.12.17
往事茫々として夢の如く
増田 次郎
私も島先輩に倣って少し昔話をさせて頂きます。私は昭和3年に中華民国奉天省安東市で生まれま
した。ここは現在遼寧省丹東市という大変大きな町になっています。この町は鴨緑江を隔てて、対
岸は北朝鮮の新義州です。
私が物心ついた当時、朝鮮は日本の領土でした。一方安東は満州国の町ですから、安東と新義州の
間には国境があり、安東には(多分新義州にも)税関がありました。「安東、安東、1時間停車」
と奉天発釜山行きの特急列車が停車中にアナウンスが聞こえたのを覚えています。多分通関や、旅
券審査などで時間がかかったのでしょう。南満州鉄道(満鉄)はここまでで、この先は朝鮮鉄道が
運行していたはずです。
子供心にも大きな蒸気機関車が「がらんがらん」と鐘を鳴らしながら走っていたのを覚えています
。安東の裏山には南満州鉄道独立守備隊の兵営があり、不穏な情報が流れると、町の要所要所に完
全武装の兵士が立ち小学生は何事もなく登校していました。
安東は満州の中では一番南にあり、鎮江山という山は桜の名所でした。この一角に日本の総領事館
や満鉄病院があり、小学校(満鉄が経営)もこの一帯にありました。冬は寒いところで風が吹くと
小学校低学年の私は4才上の姉の陰に隠れて登校していました。
「寒い北風吹いたとて、いじけるような子供じゃないよ。満州育ちの私たち」という歌がありまし
た。これが満州独特の唱歌だったことを知ったのは最近のことです。
白系ロシア人の経営するビクトリアというロシアパンを売るお店がありました。すごく美味しかっ
たのは覚えていますがどういう味だったかは説明できません。当時は小さな町でしたが、中華料理
店は大変味がよかったようで家族で年に何回か行きました。また父が勤務していた三井物産の現地
人社員が私どもの住まいの付属家屋に住んでいて、休みの日に餃子をつくってくれました。張義元
さんという方で、もちろん今生きておられるなら120才かもっと上かも知れません。私は生まれ
てから小学校二年生まで安東にいました。残念ながら安東に行く機会はついにありませんでした。
「往事茫々として夢の如く」。なつかしい思い出です。
当時の小学生はよく植樹に連れて行かれました。「朝鮮の山ははげ山ばかりだ。木を植えなければ」
といわれ、学校の行事として朝鮮の山に植樹に連れて行かれた記憶があります。日本は朝鮮半島か
ら収奪したといわれますが、日本人が学校を建て、教育を普及させたことは間違いないことです。
アメリカが今イラクで苦労していますが、外国の人に理解してもらうことの難しさは、世界のどこ
でも昔も今も変わりがないようです。 目次へ