2003.7.16
玉電、世田谷、昔話

                                                                                                                        増田 次郎


近頃は洒落にもならぬ嫌な話ばかり。困ったことです。練馬にも強盗が現れたそうで、大根乱。
世田谷の大先輩、島さんが昔話を書いておられますので若干補足します。

玉川電車は、昭和14年か15年頃まで山手線の下をくぐって天現寺橋まで行っていました。これが山手線の内側は全部市電にすると役所が決めて、切り離されたのです。
この山手線の下をくぐる玉電の線路跡が東急デパート西館から東館1階の名店街に通じる連絡通路だと友人から聞きました。
そういわれると通路の真ん中にごつい壁があり、二本に分かれています。

現在の玉電は玉川通りのど真ん中を走っていました。
勿論今のような広い道路ではありません。ことに用賀の先で道路が狭くなり、玉電は道路の北側の端を走っていました。瀬田の近所では、電車が道路脇に生えている笹の葉をこすりながら走っていました。あの涼しい音を覚えていらっしゃる方は少なくないと思います。

なお当時は二子玉川が終点ではなく、溝の口まで行っていました。また二子玉川から砧行きの支線があり、田圃?の中を小さな電車が走っていたのを思い出します。私は当時溝の口に行ったこともなく、砧線に乗ったこともありませんでした。数年前に二子玉川から成城学園駅までバスに乗ったときここが昔の砧終点だよと教えてもらいましたが、何の変哲もない冴えない町でした。(お住まいになっている方、ご免なさい)

私が当時の第四荏原小学校(現太子堂小学校)を卒業したのは、昭和16年の春です。
その年の12月8日に大東亜戦争が始まりました。
私は子供のとき日清、日露の戦争の話を聞き、随分昔の話だと思ったものですが、現在の子供さんにとってはそれよりもさらに昔の話ですね。老人の昔話です。
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