2011.8.26
母になること、母がすること
「オギャー、オギャー」
「ガーゼをこう手に絡め、赤ちゃんが掴むようにするのよ」。
新米ママのまだ慣れない沐浴を助けながら、こうすると安心するのだと助言する。
「本当だ、おとなしくなった」新米ママの嫁さんは楽しそうに赤ちゃんを洗った。
左手で赤ちゃんの頭を抱えるのだが、あまりに優しすぎて頼りない。それでも大切な我が子ゆえ、絶対に手の平
から外すわけはないと思うのだが、あれでは危ない。「耳はちゃんと押さえてね」ここでもちょっと口を出す。
黄疸が出ているようなのだけど…、夜泣きはどうしよう…、げっぷが出ないときは…、そんな嫁さんの疑問に、
私の経験という辞書から子育ての記憶を引き出し、一つ一つ伝授するわけである。
嫁さんは、なるほどと言いながらこちらのアドバイスに素直に従う。
赤ちゃんが母親の言葉を聞きながら育つように、新米ママさんもまた助言を聞きながら母になるのである。
母から子へと、綿々と受け継がれてきた心得、今こうしてまた受け継がれる。
嫁さんのお母さんは亡くなっているので、私が産後の手伝いをしているのだが、紙おむつ、電化製品、冷凍食品、
宅配便など便利になっている昨今、ともすれば私の手など無くても出来そうな気配である。それでもこちらの手
が借りたいと言ってくれるのは、息子の母親としては、うれしいことなのかもしれない。
ともあれ、初産の不安というものは、これで大丈夫なのだろうかという点につきる。
子育て済んで日が暮れてではないけれど、忘れかけた過去のページをめくるたびに子育て時代の若き頃が蘇って、
何やら気持ちが晴れやかになる。それは子育ての楽しさを思い出すというよりも、子育てのためにいろいろなこ
とを知ろうとしたあの頃の自分が、妙に愛おしく、そしてなつかしいのだ。
時計を見れば、はや午後3時。今日は午前11時半にこちらに来た。もうそろそろお暇だ。
「赤ちゃんが寝ている時、一緒に寝なさい。また明日来るから」そう言って息子の家を出た。
電車とバスを使っての手伝いである。産後一か月は毎日来なくちゃ、その後は少しずつようすを見ながら…
体に疲れを感じながらも、久々母として変に使命感を感じ帰路を急ぐ。
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