2011.3.17
東北・関東大震災から一週間
被災者の方々にお見舞いを申し上げます。
神奈川県川崎市にあるわが家。3月11日から一週間のことを書きとめたいと思います。
3月11日、午後2 時46分頃、東北地方太平洋沖でマグニチュード 9.0の地震発生
テレビの画面は地震注意報だ。(東北地方か…)と思ったとたん、グラグラ揺れるのを感じた。テレビが消えた。
停電である。東北地方で起きた地震で神奈川県のこの場所がこんなに揺れるなんて相当大きい地震なのか。
グラグラという揺れは一層大きくなった。足元のグラグラと家具などのガタガタという音が気持ちを焦らせる。
家の中でどこに逃げれば安全だろうか…、 止まらない揺れの中、3階のトイレに逃げ込んだ。
風呂場の浴槽にある水がザブンザブン音を立て、浴槽のふたを押し上げタイルにこぼれおちる音がする。
激しい揺れの中、亭主は震えるチワワを抱え、青ざめた顔して3階に上がってきた。
あの日、停電は夜10時半まで続いた。電気がつかない中、コンビニに食糧を求める人の列が出来た。
電話が通じない、テレビでの情報は見られない、パソコンももちろんダメ、非常用のラジオだけが頼りになった。
灯りの無い真っ暗な街、信号機もつかない道路に車が渋滞し、薄暗い光の中、防寒具に身を包み、かろうじて手に
入った桜もち一つと、買い置きのせんべいを食べた。(私の住む神奈川県川崎市中原区は震度5だった。)
3月12日、朝からテレビはどの局も東北地方を襲った津波の報道である。
想像を絶する被害に言葉を失った。
昨日の停電のせいか、コンビニ、スーパー、電気屋で乾電池、懐中電灯があっという間に売り切れた。
3月13日、テレビはどの局も災害を映し出した。太平洋の海岸線に沿った水田地帯は水没した形である。
こちらではコメを買う人の行列が出来始めた。
非常食から、コメへ、そしてトイレットペーパーへ、そしてガソリンへ、自己防衛のためか買いだめに走る人々。
被災者のことを思えば、被災にあってない私たちは多少の我慢をしなければ…。
3月14日、東電の計画停電始まる。電車の運休、運転区間の限定など、交通状態に混乱を招いた。
地域を分けての計画停電が始まったが、うまく行かず翌日からの実施となる。
3月17日、福島原子力発電所、使用済み燃料の熱による損傷をふせぐために、水蒸気爆発した3号機の上空から
自衛隊の飛行機から水が撒かれた。地上からは放水車が出動したが、まだ沈静化していないようだ。
福島原子力発電所は大型地震と津波の影響で冷却機能が働かなくなり、1号機、3号機、2号機、4号機、水蒸気
爆発など次々に事故が起きた。放射線の問題もあり深刻である。
コンビニ、24時間映し出すテレビなど、眠らないこの時代、絶えず電気が必要とされる。
豊かな生活を送る上で電気は必要不可欠となっている。その電気が原子力に頼っていることも事実である。
水素爆発した原子力発電所の建屋は恐ろしく無残な姿を見せている。
原子力による電力の豊かさが危険との隣合わせだったことに改めて気づく。
放射線が放たれている事故現場の中、最悪の状態を覚悟し任務にあたっている方々にエールを送りたい。
世界が見守る中、この事態が収束することを祈る。
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