2006.8月7日
蚊帳
「もっと下、よく振って入るの」。こども時分、蚊帳に入ることは実に難しいことであった。
とりあえず振るのと、蚊を入れさせまいとして振るのでは蚊帳の裾の扱いが違うのである。
蚊も要領がいい。振ろうとする矢先に入り込んだり、体にちゃっかり付いて入ってくる。
こうなると狭い蚊帳の中、追い出すか殺すしかない。しかしこれがなかなか捕まらない。
蚊も心得ていて、こちらが捕まえようとする時は蚊帳のどこかに身を潜めている。
寝静まったころ、蚊帳の隅から飛出し思う存分動きまわるのだ。体のあちこちを食われ痒くて目が覚める。
蚊帳の中から手繰って電気を付ければ、腹いっぱいで動けなくなった蚊が布団の上で座り込んでいた。
蚊帳が本格的に作られ始めたのは奈良時代という。
唐から手法が伝わり、蚊帳の材質は絹や綿で作られ「奈良蚊帳」と呼ばれていた。蚊帳の色は白だったという。
室町時代、この「奈良蚊帳」の売れ行きに目を付けたのが近江国(滋賀県)の八幡の商人。
素材を変え、麻の糸で蚊帳を作った。麻は吸湿性が良いので蚊帳の中は蚊帳の外より湿度が下がるという。
上流階級で使われたようだが、夏を涼しく暮らす贅沢品だったということがうなずける。
雷さまにおびえ驚くと、「蚊帳にもぐって」と親から諭された思い出がある。
麻は電気の絶縁効果もあるというから、案外理にかなっているのかも知れない。
吊り方にもその人の流儀があった。ゆるく吊れば蚊帳の天井はゆったりと垂れ下がり小部屋になる。
きつく張ると蚊帳の天井は高くなり広々するが面白くない。程よく垂れたぐらいが、妙に安らぐ空になる。
寝転んで、垂れた蚊帳の天井を足のつま先でちょんちょんとたたき蚊帳の波をつくるのが楽しかった。
緑の麻地に赤い綿の縁取りは今になって思えば洒落た感じもするが、暑い夏が余計暑く思え、当時はこの
色使いがどうも気に入らなかった。それにも増して蚊帳の吊り手が気になった。
この吊り手は釘に引っ掛けて使用する。蚊帳の配色同様、緑の紐に瓢箪型の赤い止め玉が付いていた。
六畳間、四隅と長軸方向に2箇所、全部で6箇所に吊り手をかけるのだが、正目の木肌が美しい長押に
このおどけた赤い瓢箪は似合わないと思った。
盛夏を過ぎると、この吊り手がいっそう貧乏臭く感じたものだ。
それなのに赤い瓢箪の付いた吊り手は、下手をすると秋を過ぎてもわが家にぶら下がっていた。
そんな私が、長押も無く釘も打てないビニールクロスの部屋の中、蚊帳の吊り手を懐かしく思い出している。
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