12 オマーンへの期待ー新たなる出発 

太陽の山、ジャバル・シャムスへ

・12月1日(木)

オマーンの最高峰、3048メートルのジャバル・シャマス(太陽の山)を訪ねる。

四輪駆動車の運転ができない私が、ここに行くには他人に頼む以外に方法がない。以前に旅行社に依頼したこともあったが、運転手の病気で当日の朝になってキャンセルされてしまった。これまで行く機会を逃していたが、大使館勤務のI氏の「遠藤さん、どこにでもご案内します」という申し出があり、帰国をあと1カ月にひかえた今日、待望のこの小旅行が実現したのである。

メンバーは、I氏と私ども夫婦、I氏と同僚のN氏、と同じく大使館勤務のインド人女性とその娘の6人。N氏の車にわれわれ夫婦、I氏の車にインド人親娘が乗りこんで7時前にわが家を出発する。天気はいつものとおり、快晴。

車はマスカットから35キロのビッドビッド村あたりから山岳地帯に入る。右手が西ハジャール山脈。左やや遠くに、東ハジャール山脈両山脈の間にひらける平野部。スマイル・ギャップの手入れが行きとどいた舗装道路を、車は快調に走る。太古に海底プレ−トが乗り上げたままの山々が間近に迫る。まだ頂上が西に向かって動いているように見える岩山の景色は、何十回通っても興味がつきない。

さらに110キロ走り古都ニズワを通りこして、50キロ先のハムラ村の手前を左に折れ、目あてのジャバル・シャムスに向かう。山道を10キロほど走ると、ワジを渡る。ワジ・グル−である。川床の右奥に木々が茂っている。

そこから細い山道を上がると、デーツ林の谷間ごしに石造りのうす茶けた家々が見えかくれする。後部車窓には、ワジ越えの高台に立ちならぶ白いコンクリートの建物群。そこにあった石造りの古い村は水が涸れて、廃村となったのだという。建物群の茶色と空の青さのコントラストが美しい。

道は平坦で、次第にやや広くなる。右手は、比較的なだらかな岩山。前方におおいかぶさるような、高くけわしい山塊。ジャバル・シャムスかと思ってI氏に聞くと「シャムスはまだまだ。前方はグルー山、いまわれわれはジャバル・アクダル(緑の山)のふもとに沿ってシャムスに向かっている」とのこと。

オマーンの地理をオマーン人以上に知っているI氏は、シャムスも何回目かである。グルーの村をすぎて、もう15キロは走っている。

目の前の峻険なグルー山の手前を右折すると、道は急勾配の登り坂。いよいよジャバル・シャムスへの道だ。車はぐんぐんと高度を上げる。途中何カ所かで村人たちが、山羊の毛で編んだこの地特産の織物を売っている。

やがて左の高台に部落らしいものが見え、道がやや広がったところを車は右折、木におおわれた細道に入る。グルーからは30キロ、急な山道に入って10キロ以上は走った。

オマーン最高峰の眺望

「あれがジャバル・シャムスです」というI氏の説明で車の中から見上げると、谷ごえに小さく峰が見える。頂上に立つ観測所のような建物は軍事施設で、周辺は立ち入り禁止。そこに通じる道の入り口の大きな門の前に、番兵が立っている。「あれがオマーン最高峰のジャバル・シャムスか」と眺めながら、さらに3キロほど平坦な岩盤の道を走ると、峡谷に出る。

峡谷は垂直に立ち、その深さは1千メートル。世界でも有数のスケールのものと聞く。車から降りて、雄大な眺望に見とれる。はるか眼下には、緑の木々と部落。目もくらむばかりの絶景である。

この地点が海抜2千メートルというから、幅数百メートルの峡谷の向かい側に立つジャバル・シャムスは、ここからさらに1千メートルの高さなのだろうか。全員、夢中で写真を撮る。

昼食のため近くの岩場で車を止める。すると、ベドウイ ンの女性や子供たちが大勢、中には子供を抱いた女性までもが裸足で岩場を駆け降りてくる。例の織物を売らんがためである。どこでわれわれを見張っていたのだろうか。

織物は少し買ってみたものの、これでは落ちついて食事もできない。やや車を走らせたところに避難して、遅い昼食をとる。ジャバル・シャムスは見えないが、登ってきた道が見おろせる。グルー山中にある「月の山」という名山も、うっすらと遠くにかすんでみえる。

時刻は2時をまわっている。山を降りて、頂上への入り口まで戻ると、オマーン人の番

兵が「寄ってお茶を飲んでいけ」としきりに勧める。時間も気になったが、親切にほだされてつい立ち寄る。

門の中に入ると、前が峡谷、向かいがジャバル・シャムスという見晴らしのよい場所にござを敷いてくれ、お茶とデーツ、果物でもてなしてくれる。そこには、谷間の山羊の番をするベドウイ ンのおばさんもおり、子供たちも寄ってきてしばし歓談。オマーン人らしいホスピタリテイ だ。こちらも余った果物、ジュースなどを子供たちに配ってお返しをする。

帰途、グルーの廃村に立ち寄り、ニズワでの買い物にも手間どって、マスカットに帰ったのは午後8時半すぎ。今日の全走行距離は、合計約5百キロ。念願のジャバル・シャムスも見ることができ、これで心おきなく日本に帰れる。感謝の意をこめて、あらかじめ使用人に用意させておいた夕食をI氏とN氏にふるまう。

・2日(金)

アブダビに住む次女が孫の悠太朗を連れて昼、マスカットに着く。飛行時間は50分足らず。それでも生後7カ月足らずの赤ん坊なので、心配したが、元気に到着。また、たまたま客の出迎えのため空港のなかに入っていた大使館のインド人に、荷物の受け取りなどを手伝ってもらえたとかでラッキーだった。

23年目を迎えたUAE

・3日(土)

UAE結成23周年記念日に際し、ハイサム外務省官房担当大臣がアブダビを訪問、カブース国王とオマーン国民の祝意をザーイドUAE大統領に伝えた。

アブダビ、ドバイ、シャルジャ、アジユ マン、ウンム・アル・クワイアン、ラス・アル・ハイマ、フジャイラの7首長国が集まってアラブ首長国連邦(UAE=United rab  mirates)を結成したのは、1971年12月2日のことであった。

結成以来、大統領をつとめている名君のほまれの高いアブダビのザーイド首長は、建国記念日に当たって、「ボスニア・ヘルツエ ゴビナのムスリムに対するセルビア人の攻撃の即時停止」を国際社会に訴えた。そして、「連邦構成員の国民としての自覚、国への帰属意識こそ、これまでの連邦成功の基礎であり、今後の成功もこれにかかっている」と強調。外交方針としては「内政不干渉、他国との友好関係の増進、国際憲章の遵守、超大国からの中立、とくにGCCの一員としてGCC諸国との関係強化」をあげた。

夕方、悠太朗を連れて妻たちとクルムの海岸にいく。車から降りると、後続の車から「ミスター・エンドー」と声をかける若いオマーン女性がいる。見ると、タイピストのアジザだ。ブリテイ ッシュ・カウンセルで英語の勉強が終わってから、海岸に立ち寄っていたとのこと。

何か物想いにでもふけっていたのであろうか。若いオマーン女性が1人で海岸にくることがあるのか、と驚く。

アブダビでは海をこわがったという悠太朗は、今日はこわがりもしないが、喜ぶ風でもない。まだ、海は早いのだろうか。それにしても、今日は風が強い。空も珍しく曇り空。風邪をひかせては大変、と早目に家に引き揚げる。

「オマーンへの投資機会」

・5日(月)

本日より2日間の予定で、マスカット証券取引所主催の「オマーンへの投資機会」と題した国際会議が、アル・ブスタン・パレス・ホテルで始まった。

GCCで初めて電力事業(マナ発電所)の民営化に踏みきったオマーンは、今後7億ドルの石油化学工場プロジェクト、80億ドルのLNGプロジェクト、60億ドルの海底パイプラインによるインドへのLNG供給プロジェクトなどの大規模プロジェクトを推進している。そのためには海外投資誘致が不可欠であるため、今回の会議が計画されたのである。

証券取引所勤務の友人アハメッドがこの会議の担当なのを、先月末にたまたま訪ねて知ったが、彼にとって今日は晴れの舞台。忙しくしていることであろう。

元テレビのアナウンサーだった彼は、企画や諸準備にも従事するが、こういう会議があると司会を任される。今回は3百名以上のビジネスマンや投資家が出席するというから、盛会で彼もホッとしていることであろう。

会議の開会を宣言したザワウイ経済・財政担当副首相は、ワン・ストップ・ショップ設置による投資手続きの簡便化、外資法や会社法の改正についても触れ、「国は安定しており、オマーンの投資環境はよい。農業、漁業、鉱業、石油、ガス、それに観光などへの投資が有望である」と述べた。マクブール商工大臣も、「外資法、会社法などの改正によって、民間投資が容易になったので、収入源も多様化されるだろう。オマーンには十分なインフラストラクチャーがあり、投資手続きも容易だ」などと述べた。

また、ユセフ開発大臣は、「1996年〜2000年の第5次5カ年計画準備の一環として、2020年までのビジョンを作成中である。そのなかで、オマーンでの機会、制約や課題を特定する。作業は世界銀行などの援助を得て行ない、すでに各省や諮問議会ともはかって各種の委員会を設置している。95年中ごろには、諸外国の専門家も招いてビジョン会議を開催する」と述べた。

「オマーンがこれからいっそうの発展をするためには、有利な地理的条件を生かして輸出を国是とし、整備されたインフラストラクチャーを生かした大規模工業を発展させることではないか」と考えている私は、外資導入を図ることが何よりも大切なことと思う。このために今回の会議は重要な意味を持つものだが、日本の企業が1社も参加していないのは寂しいかぎりである。

中東の気候は「半分天国、半分地獄」

・6日(火)

今日の最高気温は26度、3月下旬以来はじめて30度を割る。最低温度は22度。天気は快晴。

今年の気温の変化を振り返ってみよう。

年初めの1、2月は最高温度はすべて20度台、最低は15、6度。3月も前半の最高温度は20度台、最低も21度までだったが、後半になると最高が30〜32度程度、最低も22〜24度程度に上がった。このあたりまではよい気候と言える。4月はほとんどが最高30度台。月末に41〜42度の日が2日間あっただけ。まだ、我慢のできる気候であった。

5月は最高温度が30度台と40度台が半々、最低温度も20度台後半と30度台前半が半々。夏の到来である。最高に暑い6月の最高温度は49度に上がり、夜になっても一番暑い時は33度という日もあった。7月、8月は比較的涼しくて最高が33度から30度台後半の日が大半。

9月には暑さがややぶり返して、最高が34度から43度まで、それでも最低はさすがに30度を割り、20度台後半。10月は最高、最低温度とも9月より2、3度落ちた。

11月になると、ほとんどの日が最高が30〜33度程度、最低が20度〜22度に落ちて、まず我慢できる気候となった。

中東の気候を、私は「半分天国、半分地獄です」と説明している。オマーンでは5月から10月までが地獄。

そして、厳密には12−2月と言うべきであろうが、おおまかには11月から4月までは天国なのである。

 ただし、オマーンの友人の意見は違っていて、オマーンには春夏秋冬の四季があるという。「夏と冬しかないよ」と私がいうと、彼が「あなたは日本人と韓国人、日本人と中国人の見分けがつくでしょ。われわれにはわかりませんが、われわれには微妙な季節の移り変わりがわかります」との返事。どんなものだろうか。

いずれにしても、今日の最高22度はベスト・シーズンの到来を告げる気温である。

日本人会の忘年会

・8日(木)

今日午後7時より、日本人会の忘年会がアル・ファラジュ・ホテルで開かれた。これは日本人会最大のイベントであり、担当のレクリエーション部の人たちが何カ月もかけて準備を進めてきたものである。豪華な賞品が当たる福引きがあり、ほとんどの日本人会員が集まる。子供も一緒。われわれ夫婦にとっては最後の忘年会であり、もちろん出席する。現在、オマーン在住の日本人は104名。今日の出席者は90名は越えているだろう。

娘と孫も昨日、無事アブダビに戻っている。無事といっても、昨夜午後8時15分発の飛行機が乗客のチェックイン後2時間半遅れて出発。アブダビ空港に出迎えに出ていた娘の夫と何回か電話連絡おwしたり、ずいぶんと心配させられた。娘たちがアブダビの家に帰ったのが、午後11時半。航空会社の接客サービスには、ソフトの面でまだ問題があるようだ。

忘年会では飲み物も自由。料理はこのホテルにある日本レストランの担当で、刺身でも、すしでも今日は食べ放題。今月に入って、強風で漁師が船を出せない日が珍しく何日か続き、新鮮な魚が手に入らなかったらしい。レストランの日本人オーナーは、鮮魚の確保にずいぶんやきもきしたそうだが、昨日からなんとか差かなが揚がったので、事なきを得たという。

会は型通り最初に大使、ついで日本人会会長の挨拶で始まる。会長は「今年の日本人会の最大のイベントは新大使の赴任と皇太子・同妃殿下のオマーン訪問」と述べた。幹事の音頭で全員が乾杯し、ほととき歓談。続いて、日本人学校の先生方の指導で幼児から中学生までの子供たちによるゲーム。イギリス人やフランス人などとのハーフの子供たちも混じっている。海外の日本人会ならではの光景であろう。

そのあと、メイン・イベントの出席者全員の福引きに移る。昨年まではビンゴ・ゲームで当選者を決めたが、今年は入場券の数字を使っての福引き。賞品は豊富。わが家は、一等賞のマスカット・バンコク往復の切符は逃したが、3個も賞品をもらう。おひらき後もしばらく歓談して、11時に帰宅した。

・9日(金)

マスカットでオマーン・オリンピック委員会主催のオリンピック・デー・マラソンがムダイビーの町ではアラブ馬のレースが、それぞれ行われた。マラソンには女性や子供も含めて約2千人のランナーが参加し、72頭が参加して6レースが行われた競馬の方方には数千人の観客がつめかけたとのこと。これからは気候もよくなり、いよいよ野外シーズンの到来となる。

・10日(土)

カブース国王が昨日の金曜日に、自身が寄進したルスタックのスルタン・カブース・モスクの開所式に、大臣やアドバイザーたちとともに出席したことを、新聞が伝えている。高さ9メートル、ミナレット(尖塔)の高さは55メートルで、建設に一年半を要した1千5百人収容の大モスクである。私も8月に次女の夫と現地を訪れたことがあるが、ルスタックの平野部にそびえる偉容には圧倒された。日本でも飛鳥時代や平安時代などには天皇や貴族がこのように寺を建てたのではないかと思いつつ、記事を読む。 

わが家のフエアウエル・パーテイー

午後7時よりわが家で、帰国フエアウエル・パーテイーを開く。わが家は約3百坪の敷地に、建坪約百坪の2階家。日本なら豪邸だが、ここオマーンでは普通の家。1人当たりGDP7千ドルの国民がこういうゆったりした家に住めて、3万ドルを越す日本人がうさぎ小屋に住まなければならないとは情けない。後者の政府の施策がどこか間違っているのだ、といつも思う。

会場は屋外とし、設営、ケイタリング・サービスいっさいをシェラトン・ホテルに依頼した。その上に、日本レストランからの出前の寿司を追加する。

このパーテイ には、勤め先の商工省、工業団地、商工会議所のスタッフ、ビジネスマンや個人的に世話になったオマーン人が約30人、欧米人・インド人が数人、それに大使館、JICAの仲間、知人などの日本人約20人ほどが集まってくれた。

招待者は特に世話になった人たちに絞ったが、ほとんどの人が集まってくれたのには妻と感激。ありがたいことであった。それに、出られなかったオマーン人が3人、事前に断わりの電話をくれたのも、オマーン人には珍しいことなので、心づかいが嬉しかった。

気候は最高。ライトアップした庭先に置かれたテーブルの上には、各種の料理と寿司、急遽しつらえたバーには蝶ネクタイ姿のホテルのボーイが控えている。あちらこちらに、人の輪が広がる。その人の輪のなかを、写真班を引き受けてくれたJICAの仲間がフラッシュをたいて回る。「お世話になりました。ありがとうございました」と感謝の気持ちをこめて、私も妻も、出席した人びととの別れを惜しんだ。

・11日(日)

「日本の父親は仕事が忙しくて、子供(12歳以下)と過ごす時間がタイの週6・0時間、米の4・9時間に比べて、3・3時間しかない」という日本の文部省の調査結果が新聞に載る。日本人としてはやや肩身が狭い。

一方、海部元首相が新進党の党首に選ばれニュースも、写真入りで比較的大きくとりあげられている。

イスラム諸国会議で過激主義者非難

・13日(火)

本日、モロッコからインドネシアまで52のイスラム国家が参加する第7回イスラム会議がカサブランカで開幕した。2日間の日程。モロッコのハッサン国王を始め28カ国の元首が出席するこの会議に、オマーンからはザワウイ財政・経済担当副首相が国王代理として参加している。

開会の辞でホスト国のハッサン国王は、過激主義者たちをイスラムのイメージをいちじるしく損なう者として非難した。エジプトのムバラク大統領やマレーシアのマハテイ ール首相も、ムスリム国家内または国家同士の争いと過激主義者が、ボスニアの兄弟たちの支援体制の弱体化を招いている、と演説した。

今夜7時より大使公邸での天皇誕生日のパーテイーに妻と出席。何百人も参加するパーテイ ーだけに、公邸の広い庭も、この日ばかりはオマーン人はもちろん、欧米、アジア、アフリカなどの各国人、在留日本人で狭く感じる。ビシユ トを着てハンジャルを差し、最高の正装をしたオマーン人も多い。各国の女性も華やか。日本女性は大使夫人以下、和服姿も多い。毎年このパーテイ ーの日本食を楽しみにしている外国人も多く、今日も寿司、てんぷらコーナーは大にぎわいであった。

われわれは来年早々に帰国することになるので、このパーテイ ーに出るのもこれが最後となる。十分にごちそうもいただいて、10時すぎに帰宅。

・14日(水)

イスラム会議は、イスラム過激主義や狂信主義を排して正しいイスラムの姿を世界に示すこと、ボスニア・ヘルツエ ゴビナヘの国連軍の増強や一層の支援などを決議して無事終了した。ここまで明確なイスラム過激主義者非難決議は、先月のオマーン建国記念日でのカブース国王の演説に影響されてのものとも思われる。

・17日(土)

今日の新聞は、1992年に申請していたアラビアン・オリックスの棲息地のジダット・アル・ハラシスが、このほどユネスコの世界遺産に指定されたと伝えている。オマーンにとってはバハラ城、バットの墳墓遺跡についで3番目の世界遺産指定である。今年は文化遺産年。オマーンにとっては何よりのプレゼントである。

オマーン国内では絶滅したオリックスをアメリカのサンデイ エゴ動物園からもともとの棲息地のオマーンの原野に移して、40人以上のオマーン人スタッフが努力して数をふやしてきたものである。やがて、かんばつなどがあっても、種が生き残れる350頭の規模に達するという。

GCCサミットとオマーン

・19日(月)

本日から、バハレーンのマナーマで第15回のGCCサミットが始まった。この会議は毎年暮れに各国持ちまわりで開催され、各国の元首が出席する。今年もホスト国のイッサ首長、サウジアラビア国王、クウエ ート、カタールの両首長、UAE大統領とともにカブース国王も出席された。オマーンからの随員はファハド閣議担当副首相、ザワウイ財政・経済担当副首相以下、関係各大臣、国王顧問など多数。初日の今日はイッサ首長の開会演説の後、各元首間の個別会議が行なわれた。 また、今朝の新聞によれば、ムダイビーでラクダが7万リアル(約18百万円)でGCCの国民に売れたとのこと。今年の最高値取引である。

・20日(火)

GCCサミット2日目。各元首が個別に訪問しあいながら、世界情勢、地域の諸問題、二国間問題などについて意見交換を続けている。一方、外相会議では、明日首脳会議で採択されるコミュニケ作りを行なっている。

本日の新聞は、カブース国王が天皇陛下に天皇誕生日の祝電を送った、と伝えている。また最近、17歳のオマーン人男性にオマーン初の腎臓移植手術が成功裡に施されたことも報じている。ちなみに日本で最初の腎臓移植が行なわれたのは1964年のことであった。

・21日(水)

昨日の各元首間の個別会談に引き続き、本日の全体会議で、以下のコミュニケを採択してGCCサミットが閉幕した。

@テロリズム、過激主義の排除。

Aイラクのクウエ ートへの主権放棄を歓迎。イランとUAEの領土問題の国際裁判所へ

の付託を呼びかけ。

Bイスラエルのゴラン高原、南レバノンからの撤退を要求。セルビアのボスニア・ヘル

ツェゴビナへの侵略を非難。

CGCC国民の雇用と工業製品の交流を促進。民間部門への技術導入検討のため閣僚会

議を設置。

D会社関連法規の統一と投資を促進。

E自衛軍の創設と「半島の盾」軍の充実。

Fその他

注目されるのは、テロリズム、過激主義の排除で、カブース国王が11月の建国記念日の式典で激しく攻撃したことが、そのまま盛られている。今月はじめのカサブランカでのイスラム会議についで、GCCもオマーンの主張を支持した。というよりは、そのリーダーシップに従っている。私はかねがねアラビア半島でオマーンは、政治的には大関あるいは横綱とというべきである、と力説しているが、例証がこれである。

献身、勤勉、規律を

・25日(日)

11時より商工省工業局の送別会に出席。場所は、大会議室入り口のホール。この3年間JICAの仲間をここで何人が送ってきたが、今日は私が送られる番、月日が経つのは実に早い。幹事は工業開発部次席のマラック。50名を超えるオマーン人、インド人、ス−ダン人などの職員をまわって、3リアル、5リアルと会費を集めたはず、ありがたい話だ。

スネーデイ局長が挨拶をし、ついで商工大臣の感謝状を読み上げる。大臣とは、このあと別途お目にかかることになっている。サクセナ大臣顧問が、ファイサル局長顧問が、アハメッド部長が、サレー資金援助課長が、輪になって集まっている人々がつぎつぎに別れの言葉を述べる。

いよいよ私の番である。いままで3年間、業務の一環として日本の5S(整理、整頓、清掃、清潔、躾)運動をオマーンで展開してきた。別れの私の言葉は3D。Dedication(献身)、Diligence(勤勉)、 Discipline(規律)であった。私のカウンターパートたちはオマーンの超エリートたちであったが、社会の仕組みが違うとはいえ、私はこの3点でまだまだがんばってもらいたいと日頃から言ってきたことである。今後とも、頭においてもらえるだろうか。

ついで、プレゼントにオマーンの古い銀製の火薬入れを磨いて飾った額をもらう。素晴らしい贈りものだ。聞くところによると、スネーデイ局長が「ミスター・エンドウはオマーンのものはなんでももっている。しかも素晴らしいものばかり。プレゼントは珍しいものを選ぶように」と、事前にマラックに指示があったとか。

飲み物や食べ物がたくさん用意してあるが、今日は特別に「ミスターエンドウ、さようなら」と書いたおおきなケーキが用意してある。10人以上のオマーン女性にかこまれて、ケーキにナイフをいれて写真撮影。

こんなに女性が集まってカメラに収まってくれるとは、私も年の割りには意外ともてていたのかもしれない。

「本当にみんなありがとう。おかげでよい仕事ができた。みんなも世のため、人のために、3Dを忘れないように」と願って、別れを告げた。

H丸紅所長から、「知り合いのオマーン人が今夜のオマーン・テニス選手権大会の決勝に出場するので、よかったら」との誘いを受けたので、夜スルタン・カブース・スポーツコンプレックスに出かける。

オマーン・ナンバーワンでアジア・オリンピックにも出場した16歳の少年は外国に留学中とかで、タイトルはナンバーツーとスリーの間で争われ、ナンバーツーの順当勝ち。H氏の友人は敗退。試合のレベルは、まだまだ低いようだ。それよりも観客は4、50名のわびしい試合であった。8時すぎに外に出ると本降りの雨、しぶきを上げながら帰宅。

オマーン婦人への期待

・26日(月)

諮問議会議員の2期目が今日から始まる。任期は3年。今回の特徴は新旧交代、議員数の80名への増加、それに何といっても2名の初の女性議員の誕生である。

カブース国王は、新議員をアラム宮殿に集めて行なった演説の中で、新諮問議会の課題、役割などについて触れ、とりわけ1996年から2000年までの5カ年計画への参画を求めた。

とくに婦人議員に対しては経済社会開発計画での貢献を要請し、彼女たちが不断の努力によって義務を果たせることを示す国家的な責任を負っていること、今回はマスカット選挙区からだけの選出であったが、状況に応じて他の地域にも拡大されること、婦人議員はオマーン社会全体にとって誇りであること、イスラムの教えに反しての女性の地位の過小視の是正であることを述べて、全オマーン女性に今こそ経済社会開発のために邁進するように求めた。

さらに、オマーンの婦人たちには、先進国に蔓延する華美な風潮を避けて倹約を旨とし、子供たちにも節約を教え彼らが独立して生活ができるようにしつけること、オマーン婦人協会が農村婦人の啓発、文盲退治、障害児童の介護、地域社会、伝統工芸その他の開発に取り組むこと、教育を受けた女性が地方の婦人たちの各面での技能向上を援助するようアドバイスして、オマーンの婦人たちがこの期待にこたえてくれることを確信すると結んだ。

1991年からの第1期に引き続き、議長を勤めるシエイク・カタビは国王に対する答辞の中で、政府とともに5カ年計画に取り組むのが、大きな使命であると述べている。

また、カブース国王は、本日短時間オマーンを訪れたイスラエルのラビン首相と中東和平について会談した。ガザやエリコでのパレスチナ人の自治、ヨルダン・イスラエル平和条約の締結などに結実した中東和平を、オマーンはつねに支持してきた。その延長線上で実現した今日の会談である。

オマーン・フットボール協会は1992年からナショナル・チームの監督を務めたモハジェラニ氏を解任した。オマーン人らしく、「クビにしたわけではない。次期監督はゆっくり時間をかけて選び、同氏を再び選ぶこともありえる」と友人のイスマイリー副会長が新聞で述べていたが、やはり11月のガルフ・カップの全敗がオマーンにとってこたえたのだろうか。モハジェラニ氏は1978年イランがワールド・カップに出場した時の名プレーヤーで、ドイツ人監督の後を引き継いで監督を務めてきた。今後はブラジル、ハンガリ−などから監督を呼ぶ模様である。

ベドウイ ンたちとの別れ

・29日(木)

26日に船便の荷物も発送して、オマーン滞在もあと10日あまり。この3年間、毎年砂漠でお世話になったベドウイ ンたちにもさよならを言って帰国したいが無理かな、とほとんど諦めかけていた。そんな折り、今月の中旬頃スネーデイ局長から「帰国前に砂漠へ招待したい」との提案を受けた。

その後、局長が超多忙で実現があやぶまれていたが、今日の午前中になって、「行けることになった。午後3時にアザイバのシェルのスタンドで待ち合わせましょう」との局長から自宅への電話。かくして、暮れの砂漠行きが決定した。

他にアリ局長の友人のアブドウ情報省局長と従兄弟のハミース陸軍大尉が加わり、一行は4人。局長の新車紺色のベンツ360に寝泊まりの荷物を満載したので、予定より大幅に遅れ、午後4時半に出発。

アル・カビルを過ぎて、局長が「予定より遅れている」と車のスピードを上げる。スピード・メーターが180キロ、195キロとぐんぐん上がり、ついに210キロ。このスピードは初体験。

マスカットから280キロほど離れたアル・カメルの町を過ぎた頃に暗くなる。車は道の右手の土漠へ突っこんで、突然止まった。暗がりのなかにモスクがある。なかに灯りはなく、真っ暗だ。3人は身体を清めて、暗いモスクに入っていく。若いインテリたちでも信心深いものだ。私までも敬虔な気持ちになる。

車は、やがてブ・アリの町に着く。局長はこの地のシェイクの息子、10歳の時に父を失いマスカットに出たのだという。局長の叔父さんの家に寄る。お城のような大きな古い家だ。「建ってから150年くらいかな。これは戦争の時の鉄砲の跡だ」などと壁を指差す局長の説明にうなずく。

二階の細長いマジュリスに、やがて局長の叔父さんが親戚の若者たちを引き連れて現われる。お茶だけだろうと思っていたら、ここで夕食が出る。

まず、デーツ、コーヒーと果物。次にアラブ料理のフル・コース。スープにチキン、山羊肉、各種カレーにアラビア・パンにライス、それにサラダ。大きなガラスの器になみなみと入ったスープは初めて。寒い季節に耐えるよう身体を暖める薬草が入っている、とのこと。その後、お茶にハルワ。

これらを運ぶこの家の男の子供たちは食べ物が盛られた皿をうやうやしく掲げ、静かに戸口から入ってくる。礼儀正しいアラブの伝統がここではきちんと生きていて、印象深い。

夜10時すぎに、2台の四輪駆動車に乗りかえてマスカットからのわれわれ一行に局長の叔父さんと従兄弟たち、道案内のドライバーで総勢8人。周りに集まった人びとに見送られて出発。耿耿と明るいブ・アリの町を出るとそこは漆黒の闇。その闇のなかを2台の車は疾走する。厚手のシャツ、厚手のセーターだけでは寒い。局長が貸してくれた厚いマサラを頭からかぶり、首に巻いてなんとか寒さをしのぐ。

砂漠のなかをどう走ったのかまったく見当もつかないが、車が止まった。降りると、低いテントの前で、入口にランプの灯りが一つ。目を凝らすと、他にテントが二張り見えるが、静まり返っている。

テントのなかに声をかけると、何人か起きだしてきた。おたがい押し殺した声で、挨拶を交わす。今回は、外国人は私だけ。本来のベドウイ ン生活をたっぷり味わわされるようだ。わくわくした興奮がわいてくる。

それにしても星がきれいだ。漆黒の満天の空に、白い大きな星が縦に横に帯のようにつながっている。線香花火が最後に落ちていくように、ときどき流れ星がすーと尾を引く。このような光景は世界のどこででも見られるものではない。最高の贅沢である。お茶を飲んだあとテントに潜りこみ、暗がりのなかでなんとか寝袋をしいて眠りについた。

・30日(金)

テントのなかの何人かが起き出す。時計を見ると朝の5時すぎ、お祈りの時間だ。テントの前方の砂山の上で、西に向かってアザーンを唱えるベドウイ ンの姿が、うす明かりのなかに浮かぶ。私の方はテントから2、30メートル離れた砂漠にしゃがむ。砂漠での洗面・トイレにもすっかり慣れた。

朝7時半、すっかり明るくなる。朝飯。砂漠ではオムレツが多いが、今日はシンガポール・ビーフンに卵と砂糖を混ぜた焼きそば。 食べ終わったら海岸で釣り。ここはワヒバ砂漠でも海岸沿いの場所。釣りといっても竿はない。糸に錘と針、それに餌のイカや小魚の肉をつけて、右手で糸をぐるぐると回して海に投げ入れる。太古の人びともこのようにして魚をとったのだろうか。

キャンプに引きあげると、テントの前で数人集まってなにやら遊んでいる。見ると、砂の上に2人向かいあい、おのおのが直径数センチの穴を3個ずつ3列作り、そのなかに直径2センチほどの黒い固まりを並べている。そして、それを動かしたり相手の黒い固まりを取りあう。砂漠のチェスだ。動かしている駒はラクダの糞。私も、一番の指し手といわれるベドウイ ンについてもらって参加する。初体験で、結果は見事に1勝。

ムール貝とタコ取り、豪快な石焼き

11時頃、朝釣った魚を煮て昼食をとる。朝は早いし、ふんだんに食べたし、さあ昼寝と思っていたら、そうはさせてくれない。食事の場所から数メートル離れたところに、両足を縛って転がしてある山羊を夕食用に屠殺して解体するので手伝え、という。ベドウインが小刀で山羊の頚動脈を切る。血しぶきがさっと上がる。砂漠の子供2人とぐったりとした山羊を仰向けにして足を持ち、解体を手伝う。別の初老のベドウイ ンが海岸でもう1頭を解体。

山羊の解体を一部始終ゆっくりと見る間もなく、局長やセイフが「ミスター・エンドー、車に乗れ」という。荷台に飛び乗った小型トラックは波打ち際でスピードを上げる。車から振り落とされないように、金具に必死につかまる。

3台のトラックは、数キロ先の岩場に止まった。引き潮で水は3、40メートル先まで引いている。セイフたちが降りて、平べったい20センチほどの長さの石を拾い集めてはトラックの荷台に投げ入れる。いくつもいくつも吟味しては拾う。帰途、浜辺に大量に積まれたコンクリート・ブロックから30個ほどをトラックに運びこむ。そしてトラックは一目散にキャンプ地へ。

石を降ろすとすぐに、ムール貝とタコ取りのためにまた小型トラックで今度は海岸線を北上する。2キロほど行ったところが漁場。ムール貝取りは昨年もやったが、タコ取りは初めての体験だ。

そこは大きな岩場。満ちはじめている海水が岩の間に流れこみ、またぶつかって大きなしぶきを上げている。ムール貝は岩一面にびっしりとついているので、鉄の棒で削いで袋に入れればよい。あっという間に1メートルほどの麻袋が2ついっぱいになる。

タコ取りの方は、海水の上がっている岩の間に1本の鉄の棒を差しこんで捜す、見つかったら、もう1本の棒にタコを絡ませて引き出す。何かがかかった、タコだ。海から上がったばかりのタコを見るのははじめて。腕や手のひらに吸いつかせると、痛いほどではないが、引き離すと吸盤の跡がくっきり。大蛸の場合には、喉に吸いつかれて窒息死する事故もあるという。5匹ほど取ってキャンプ地に帰る。

まだ、日は高い。テント近くの砂漠に煙が立ち上っている。行ってみると、コンクリート・ブロックで縦2メートル余り、横1・5メートルほどが囲まれている。そのなかに並べられた平たい石が熱く焼け、下では火がまだ赤々と燃えている。昼、屠殺した山羊の肉をこの上で石焼きしよう、というのである。

今朝われわれが途中で積み込んだコンクリート・ブロックでまずかまどを作り、その上に1メートル以上の高さに薪を積む。さらにその上に、海岸で拾い集めた平たい石を並べたのだ。 そして、薪に火を放つと薪が燃えながらどんどん低く下がり、燃え尽きると石が今のように熱く焼けるのだそうだ。平たい石の隙間は、2人のベドウイ ンの年寄りが手で小さな小石を入れて埋めつくしていく。スケールの大きい砂漠のなかの石焼きである。

この料理も、私に取っては初めて。作業が終わると、一切れ何百グラムもある肉がぼんぼんと石の上に乗せられていく。肉は石の上でじゅーと音を立てて、焼き上がる。かまどの周りに集まる者、近くの砂の山かげで輪になっている者、テントに入っている者、みんなこの石焼き肉を豪快に楽しんでいる。

見知らぬオマーンの若者たちも四輪駆動車で乗りつけ、テント前にちゃっかりと座って、石焼き肉を食べている。そのうちに、わがグループのベドウイ ンの1人が見知らぬ老人と子供を車に乗せて連れてくる。彼らもわれわれの後ろに陣取って石焼き肉を食べながら会話を楽しんでいる。どうやら、石焼き肉をふるまうために、こちらから砂漠に繰り出すのがベドウインの作法のようだ。ご相伴に預かるのも作法であろう。

子供が車の運転席に乗りこむ。見ると、まだ幼い子供。「ミスター・エンドー、乗せてもらったら」というので助手席へ。運転手はハンドルから上に顔が出ない。年を聞くと、11歳だという。砂漠の子供たちが運転の名手であることは知っているが、こんな年若い少年が運転する車に乗せてもらったことはない。少年は、老人を乗せて家に帰るつもりのようであったが、その前に私を乗せて砂漠をひと回り走ってくれた。

当初は砂漠でもう1泊の予定であったが、アブドウがマスカットで急用ができたというので、われわれは一休みしてから帰ることとする。海岸で雑談した後、ベドウイ ン達に別れを告げた。3年間世話になった感謝の意を込め、再会の望みを託して、日が傾き始めたキャンプを後にする。一足早くブ・アリの村に引きあげる村人の車が、われわれに同行して道案内をつとめてくれる。

今回の砂漠行きでは、ありのままのベドウイ ン生活を味わった。210キロのスピード、砂漠のチェス、タコ取り、砂漠の豪快な石焼き、少年とのドライブなど思い出いっぱいであった。マスカットへの帰着は夜10時半であった。

1年の終わりに

・31日(土)

今日は昇天祭の休日。昨夜帰宅したのが遅く、年の瀬なので助かる。昇天祭は、1月10日に続いて今年で2回目。イスラム歴は太陰暦で1年は354日、したがって、こういうことがおこりうる。

今朝は遅く起きて昨日、一昨日の新聞をまとめて読む。一昨日の29日分で、「特集ー1994年回顧」の記事が出ている。

見出しは、大きく「国王の過激主義者撲滅の呼びかけに国際会議から大反響」とある。カブース国王の11月の建国記念日の式典での過激主義者や狂信主義者の撲滅への訴えに、モロッコのハッサン国王がカサブランカでのイスラム会議で、またバハレーンでの今月の会議でGCC各国首脳が直ちに呼応したことがトップに来ている。

この2つの国際会議で何十もの国がカブース国王の演説に同調したのだから、オマーンとしては面目躍如たるものがあろう。ふだん物静かな国王の、あの日の激しい演説が目に浮かぶ。

次は、諮問議会議員数が80名に増員されたなかで史上初めて2人の女性議員が誕生したこと。ニズワでの文化遺産村の建設、オマーンの歴史セミナーの開催、アラビア・オリックスの棲息地のジダット・アル・ハラシスの世界文化遺産指定など「文化遺産年の1994年」が成功裡に終わったことも特筆されている。

それに、国王がラマダン前に例年通り国内各地を行脚する「ミート・ザ・ピープル」が行なわれ、特にオマーンの若者に40万の外国人が従事する仕事は己を磨けば交代できることや、ダヒリヤ地方に新たに水資源が発見されたことなどを国王が強調した点が取り挙げられている。

さらに国際面では、イエメン紛争や中東和平問題で見られたオマーンの平和への努力、ブット・パキスタン首相のオマーン訪問、それにわが国の皇太子殿下、雅子妃殿下の親善訪問、ヨルダンのフセイン国王、イスラエルのラビン首相などのオマーン訪問を1994年のイベントとして挙げている。

経済面でも、インドへのガス供給の基本合意、LNG生産プロジェクトの準備、インド向け肥料供給の覚書調印などガス関連プロジェクトで大きな進展があった。民営化の促進も今年の特徴であり、マナ発電所の民営化が具体化され、今後マスカット、サラーラの排水処理施設も民営化される予定である。12月はじめには、過去最大のオマーンへの投資機会国際会議も開催された。経済は全般としてもおおむね健全に推移したと回顧されている。1994年は、オマーンにとってはこんな年であったのだろう。  

日本との間では、なんといっても、皇太子殿下、雅子妃殿下のオマーン訪問、それに年初めの新大使の着任であろうか。両殿下のオマーン訪問が日オの親善に果たされた成果は大きなものがある。「日本にとって最も近い、しかし最も知られざるアラブの国オマーン」がテレビを通じて日本の人々に知ってもらえた効果は、はかりしれないものがあった。なによりである。

また、11月、ジェトロとの共催で東京で開催されたオマーン展・オマーン・セミナーが成功裡に終わったことも、それに尽力した私にとっては忘れられないことであった。

国際協力の面では関係がさらに強化され、民間でもトップクラスのオマーン訪問がふえつつある。喜ばしい限りである。 今夜は大晦日。オマーン人の家庭ではそのための特別な行事はない。ただ、各ホテルでは新年を迎えるための特別デイナーなどのモ催しがある。わが家はこれには加わらず、最後のオマーンでの大晦日を静かに過ごすことにした。

新年がオマーンと日本にとっていっそうよい年でありますように祈りつつ。