平和外交−イエメン内紛の調停

ラクダ肉の試食会

・4月2日(土)

今日は久しぶりにラクダの肉が手に入ったので、夜わが家で試食会を開く。

2年前の9月に妻とサラーラに遊びに行った時に朝の市場でラクダ肉を買って、夕方の飛行機に乗るまで苦労して保存し、マスカットまで持って来たことがあったが、その時以来のラクダ肉である。

あの時、妻にとってラクダ肉を料理したのは初めてであったが、味付けに独特の工夫を凝らして招待客にはすこぶる好評であった。ラクダ肉は歯ざわりもよく、牛肉よりおいしいという人が多かった。オマーンの人たちを招待してのラクダ肉・パーテイ ーも催したが、オマーンの人たちも「これはうまい。ソースが絶品だ。このソースはどうやって作ったのか。ミスター、エンドウ、奥さんとマスカットでラクダ肉レストランを開けばいいのに。絶対に当たる」とまで興奮して言ってくれたが、妻はソースにアラブでは禁じられている飲み物をかなり使っていたので返答に窮したものであった。

あれ以来、サラーラまで行かなくともマスカットでラクダ肉が手に入らぬものかと八方手を尽くしたが駄目。仕方なくサラーラ出身のオマーン人にサラーラでの購入を頼んだりもした。だが、結局タイミングが合わずに入手できないでいた。今回、たまたまサラーラに出張する住友商事のH所長に「オマーンを訪問中のお嬢さんにも味わって頂きます」と言って10キロほど買って来てもらったのである。

わが家への招待客は、ラクダ肉を味わうのが今回で2度目のK参事官夫妻、それに初めての丸紅のMさん夫妻、住友のHさん親娘、それに独身の日商のIさん。今夜もラクダ肉はすこぶる好評。ソースには、たっぷりとイスラム禁制の代物を入れてある。ラクダ肉提供者のHさんは、昨日開かれた1994年度日本人ボーリング大会で優勝したこともあり、話題の中心人物となる。夜更けまで楽しいパーテイ ーが続いた。

念のため為つけ加えると、砂漠では原則的にはラクダは食べない。砂漠の生活は移動、燃料、用水、薬用などラクダがなくては成り立たず、ラクダを食べれば自分たちも死ぬ以外ないからである。したがって、特別の場合でないとラクダは食べない。食べる時は、3カ月ぐらいの子ラクダを食べるが、これが柔らかくてまたうまい。

サラーラの場合には、飼育したラクダの肉を骨付きのまま10キロぐらいずつ山盛りにしてスークで売っている。

・3日(日)

新聞は本日イエメン大統領がオマーンを訪問することをトップで報じている。

2日間の公式訪問では、大統領はカブース国王とイエメン情勢、対立を続ける大統領と副大統領との和解を図るオマーンのたゆまざる努力、それにイエメン・オマーンの2国間関係と関係強化の方策について意見を交換するという。

イエメンは1990年に民主主義を奉ずる北と共産主義の南が合併した。だが、当初から人口の少ない南に不満が残り、イエメン情勢は融和どころか一触即発の危機的な状況にあり、今回の会談の行方が注目される。

平和志向のオマーン外交

・4日(月)

新聞は、昨日カブース国王とサレハ・イエメン大統領の会談が行なわれたこと、カブース国王はその後に別途にオマーンを訪問したビード・イエメン副大統領とも会談を行ない、また三者会談も行なわれたことを写真入りで伝える。

国王が懸命の調整工作を続け、イエメンの両者も危機を回避するためのオマーンの努力は大きいとしながらも、軍事衝突、つまり内戦を避けるべくコミュニケ作成委員会設置にいったんは合意した。しかし、結局なんの理由からか設置されなかったという。両者の対立が抜きさしならない状況にあるものと見ざるをえず、先行きが憂慮される。

1970年に開国し、世界に遅れて国際社会に登場して以来、オマーンはその中でふさわしい位置を占めるべく懸命に努力してきた。その結果、現在では世界約130カ国と外交関係を結び、GCC、アラブ、イスラム、国連などの各国際機関のメンバーとして活躍するに至った。その最大の結実が、今年からの国連安保理の非常任理事国への選出であった。この間オマーンの掲げた外交の基本原則は善隣外交、内政不干渉、国際法と国際慣習の尊重、アラビア湾岸諸国間の協力体制の強化、イスラム諸国との協力推進、友好諸国との親善関係の樹立である。

これらのオマーン外交の基本原則の底に流れる理念は、平和希求、それもオマーンの過去の歴史に裏打ちされた揺るがぬ信念ではないかと私は考えている。平和が何よりも尊いと思っているであろうカブース国王は、どんな思いでイエメン情勢を見ているのだろうか。      

イエメンは深いつながりを持つ隣国で、しかも昨年に懸案であった国境問題を決着させている。10月にはカブース国王自らもイエメンを初めて公式訪問した。しかも、オマーンはこの国境画定の際に自分の領土を譲ってまでして解決に当たったのである。関心もひとしおであろう。

・5日(火)

午後2時半の退庁時に、外に出ると山がほとんどかすんで見えない。一緒に出てきたカウンターパートのアハメッドが「ワデイ ・アル・カビールが見えないよ。無事に家に帰れるかな」と言っている。サレーは「フウア (ひどい風だ)」と叫んでいる。

そういえば、今朝の新聞にUAE沖で衝突したタンカーから流出して陸に近付いていた油が、風向きが変わったため沖に流されはじめたと報じていた。ひどいシャマールだ。

役所からの帰り道、空全体が雲に覆われてサングラスは要らない。ひょっとすると、今日は久しぶりに雨になるかもしれない。「本当に久しぶりの雨になるといいのだが」と浮き浮きした気分で家に車を走らせた。

夕方、妻の買い物に付きあう。2軒目のスーパーを出たところで、水滴がポツリ、ポツリとウイ ンドーに落ちはじめた。「本当に雨だ。しかしこの程度ではどうしようもない」 今夜が大雨になることを祈って、今このワ−プロを叩いている。

久保カルテットの演奏会

・7日(木)

今日は午後8時より、アル・ブスタン・パレス・ホテルのオーデトリアムで日本大使館主催の「久保カルテット弦楽四重奉団」の演奏会に妻とオマーン訪問中の長女夫婦の4人で聞きにいく。アル・ブスタン・パレス・ホテルは中東随一といわれているホテルであるが、このオーデトリアムも素晴らしいホールである。舞台、観客席、シャンデリアのどれをとっても豪華である。この音響効果も世界で一流と聞いている。

今日は人の入りも6、7割でまずまず。着飾った外交団、欧米人に混じって日本人の姿もちらほら見える。それよりも、オマーン人がかなり来ている。音楽学校の生徒も招待したと聞いたがその関係者であろうか。カブース国王は大のクラシック・フア ンで音楽振興のために英才教育も取りいれているほどの力の入れようである。一途に国民の幸福を願って働いている国王には、クラシックがなによりの安らぎなのであろうか。

久保カルテットのメンバーは久保陽子(バイオリン)、久合田緑(バイオリン)、菅沼準二(ビオラ)、岩崎洸(チェロ)の4人で、演目はモ−ツアルト/弦楽四重奏曲、第14番ト長調 K387、高田 三郎/弦楽四重奏曲、ボルフ/イタリア・セレナ−ド ト長調、それにシュ−ベルト/弦楽四重奏曲の4曲。

さすが日本一流の演奏者を集めたカルテットである。その演奏は素晴らしく、会場はシーンと静まりかえって聴きほれる。クラシック音痴の私も、日本人として鼻高々である。国境を越えて、人びとにこれだけの感動を与えられる芸術の力はすごいものである。文化交流の大切さを痛感することしきり。

大雨をもう一度

・10日(日)

朝6時40分、食卓につくと妻が「昨日はすごい雨が降ったの知っている?それにすごい雷だったの」と言う。「え−、知らないよ。葉子知っている?」と主人とイギリスから遊びに来ている長女に聞くと「知らない。オマーンで大雨が降るところを見たかったのに」と言う。

「本当に雨が降ったの?外も濡れて居ないし、ママ、夢を見たんじゃないの」。メイドに確かめるべく、「フローア、フローア」と呼ぶが、メイドはすでに庭に出ていて応答がない。すると、長女の主人棟近が「夜中に降ったよ。雷もすごかったし」と言う。この証言でどうやら雨が降ったのが確実となった。

「いやね。信じないの」という妻の非難を振り切って、やがて外から帰ってきたメイドのフローアに確かめると「マスター、すごい雨で車も汚れているし、庭の草も濡れている」との答え。昨夜、正確にいえば4月10日(日)午前1時頃、マスカットにかなりの雨が降ったようだ。

これが今年最後の雨にならなければよいが。なんとかもう一度、道路に水がたまるような雨が降ってほしいものだ。

・12日(火)

今日の新聞に「連立政権のライバル同士、互いに最後通告」という見出しが載った。先週8日に辞任表明をした細川総理大臣の後継者選びで、主流の保守派と社会党陣営でミゾが深まっていることを、羽田外務大臣兼副首相の写真入りで大きく伝えている。

7日に細川首相が「辞めたい」と言ったこととそれを否定する発言、8日の細川首相の辞意表明も連日大きく伝えていたが、オマーンの新聞には日本の記事がよく載る。

政治記事でも今回のような記事はまだよいが、大物政治家のスキャンダルや国会審議中で寝ている日本の議員の写真などが当地の新聞に載るとわれわれは肩身が狭い。ODAのために働くわれわれが途上国の人々から「先生、先生」と慕われても、ODAの予算を決めている人達のこのような記事は海外では本当に困る。このあたりを国会の先生達になんとか分かって欲しいものだ。

イスラエル代表団のオマーン入りー中東和平水資源会議

・13日(水)

昨夜遅くマスカット・インターコンチネンタル・ホテルにチェック・インした日本国際協力機構のS部長の大使館表敬、ルセイル工業団地視察に同行すべく、朝一番にインターコンチネンタルに行くと、構内のあちらこちらに警官が立っていて、正面玄関には車を駐車しないように指導している。通常こんなことはない。

「なんだろう?」といぶかって警官に尋ねると「国際会議がある」という。「そうだ。PLO和平会議の一環としての水資源会議が、確か17日から始まると聞いたがそのせいか」と納得する。

この水資源会議はPLO和平の枠組みのなかで経済、水、難民、軍縮、環境の諸問題について将来の協力をアラブとイスラエル間で話しあうとしているうちの一環で、44カ国が参加して開催される。日本も5名の代表団を送ってこれに参加する。

湾岸でPLO和平関連会議が開催されるのは初めて。イスラエル代表団が湾岸に入るのも初めてのことだという。ホスト国がオマーンだからこそ、イスラエル代表団も入るのだろう。今年、オマーンは176票中174票の圧倒的多数で国連安保理の非常任理事国に選出された。これもオマーンの全方位外交の勝利であり、今度の会議での役割はオマーンの面目躍如たるものがある。

「この厳しい警戒もやむをえまい。気持ちよく会議に協力しなければ」と思いつつ、ホテルのロビーに入ると、ばったりクサイビー駐日オマーン大使に会う。大使もこの会議のために帰国し、早くからホテルに来ていたようだ。

「やあ、ミスター、エンドウ」と声を掛けられ「日本国際協力機構のS部長を迎えに来ている」と告げると、「今日はどこを訪問するのか。S部長はホテルは気に入っているか」などといかにもオマーンの人らしい細やかな気遣いを見せてくれる。私も大使に会議の成功を心からお祈りして、ロビーで別れ、S部長とともにルセール工業団地に向かう。

マスカットの空港から数キロ西に位置するこの団地は、1985年に開設されたオマーン第1号の工業団地で広さは百ヘクタールあり、ここではアルミニウム加工、鉄工所、縫製、大理石加工、食品加工など70を超す工場が現在操業中である。敷地内はクリ−ンでとても工場地帯には見えず、私も最初は住宅地と思ったほどであった。S部長もびっくり。団地のPR映画が日本語であったことにも、感激の体であった。

・16日(土)

イエメン情勢について、「今月始めのカブース国王との会談。エジプト及びUAEの調停工作の結果を受けて、軍事衝突を避けるべく大統領と副大統領間の話し合いがひんぱんに持たれている」と新聞は伝えている。

・17日(日)

新聞は、水資源会議が本日アラウィ・オマーン外務担当大臣の開会宣言で幕を明けることを報じている。会議は3日間。1日目は3つの会議、2日目は2つの会議と3つの非公式な技術会議。最終会議は火曜日の朝、夕刻のアラウイ大臣の閉会宣言で幕を閉じる予定。水曜日には代表団がオマーン北部を観光するという。

ムバラク・エジプト大統領の私的訪問

・19日(火)

昨日、エジプトのムバラク大統領がオマーンを訪問。3日間の私的訪問であるが、カブース国王と2国間問題の他にアラブおよび国際社会での最近の動きについて意見交換をするとのこと。だが、当然イエメン問題が中心になろう。それに中東和平、ボスニア・ヘルツエ ゴビナ問題なども話し合われるはずである。

オマ−ンは日本に一番近いアラブの国、日本と古い関係を持っている国といくら私が宣伝をしても、日本の中東を見る目は石油とビジネス、したがって、日産80万バーレルのオマーンは、残念ながら日本に一番遠い国となってしまっている。

ただ、政治的には、オマーンはアラビア半島ではサウジと並んで横綱の地位にあるのではないかと私は思っている。オマーンの国是としての平和指向、バランス感覚、カブース国王に対する信頼感などがこの理由かと思われる。その上、オマーンが古い歴史と伝統のある国であることもこの背景となっていよう。カブース国王との意見交換のため、世界の要人がよくこの国を訪れる。

本日、水資源会議が2年前に始まって以来最大の成功裡に終わる。この会議でオマーンが提案した、マスカットでの淡水化研究技術センター建設が全員一致で決定された。アラブの国の提案が承認されたのは初めてのことだという。クサイビー駐日大使もさぞ喜んでいるだろう。建設の時期、資金手当などは未定だが、今後、資金、技術面などで日本も深く関与することになると思われる。

会議では、この他にドイツ、イスラエルなどからの4提案も承認された。

・21日(木)

新聞は「昨日、ムバラク・エジプト大統領が昨夜国王に見送られてオマーンを後にした」こと、「サレハ・イエメン大統領が国の統一なくして国の安定は望めず、副大統領との融和に全力を尽くす。また、統一を確信している」と述べている事を伝えている。

「世界青年の船」が結ぶ絆

夜、オマーンで有名な写真家ハミースが若い日本人女性を連れてわが家を突然訪れる。女性は例によって青年の船の仲間の女性である。

日本の総理府が行なっている「青年の船」は、国際親善を進めるうえで大ヒットの企画だと私は思う。各国と日本の若者達が同じ船で生活を共にしながら交流を深める。ここで結ばれる絆は、何物にも代えがたく尊い。アラビア半島の中でもオマーンは、これへの参加に大変に熱心である。他の国の場合は年によって辞退したり、参加人数に満たなかったりであるが、オマーンは毎回、しかもフルに参加している。

ハミースは本職はスルタン・カブース大学の事務職員である。写真の特技があるということで選考をパスして1992年度の「青年の船」に参加して以来、すっかり日本好き人間となった。高校生時代からカメラをいじり、いまではオマーンで三本の指に入る有名写真家に成長。展示会も随時行なわれ、また本や雑誌などでも彼の写真はよく見る。

彼と私は、一昨年にたまたまナハル城でお互いにグループを案内していた時に知りあって以来のつきあいである。彼が撮ったスライドを見せてくれる時とか、日本食が恋しくなった時に私の家に時々現われる。また、今回のように日本から若い女性が来た時には、必ずわが家に連れてくる。

今回の女性は青年の船に参加した時には、九州地方の公務員であったが、その後勤めを辞め、オーストラリアで1年間のワーキング・ホリデイ を終えて日本に帰る途中、オマーンに立ち寄ったとのこと。オマーンを実際に見る日本人が1人でもふえることは大変に結構なことだと私は思う。

ただ、ハミース達が連れてくるのはいつも女性だけ。たまには男性を連れてきてほしいと思うのだが、「青年の船」経験者の日本の男性の国際交流の方はどうなっているのだろうか。

それにしても日本の女性はたくましい。勤めも辞め、オーストラリア、オマーンと飛んでくる。前に来た日本人女性の場合は、たった1人でオマーン男性10人ぐらいと離れ小島での1泊キャンプに出かけている。今は男性も女性もない世の中だからこれでよいのだろうが。私には理解しにくい。いくら開けていてもオマーンはイスラムの国、こういう日本女性はどう思われているのだろうか。

インド洋の風を受けてーオマーン・UAE会議

・24日(日)

昨日よりマスカット北方約2百キロの海岸都市ソハールで開かれていた第4回オマーン・UAE合同最高会議が今日終了した。

ソハールは9世紀から11世紀にかけて栄えた港町で、かのシンドバッドが船出した港として知られているところである。さらにつけ加えれば、ソハールは、バハレーンとならんで古くから知られている。ソハールはマガンの名で銅の生産地として、バハレーンは、デルムンの名で水の補給地としてである。「すべての道はロ−マに通じる」というのは西洋史家のいうこと、5千年前は「すべての道はメソポタミアに通じ」、アラビア湾は世界の銀座通りであった。ソハールはその時代からの町である。なお、5千年経って、今日アラビア湾が石油を積むタンカーの銀座通りになっているのも面白い。

この合同会議は1991年から場所を交互に移して毎年行われている。今年はオマーンがホスト役であった。UAEの団長はUAE国軍副最高司令官のアブダビのカリファ皇太子、オマーン側団長は閣議担当副首相のファハド殿下で、双方とも各担当大臣を引き連れての大会議である。

新聞によれば、同会議では2国間の協力関係、特に教育、経済と文化面での協力と一層の強化策が話し合われた、とのことである。また、この会議の有用性が再確認されたとも伝えている。

UAEとオマーンは隣国であるのみならず歴史的にもつながりの深い国同士である。アラビア半島の国々を、私はエルボルズ山脈(テヘラン北方の山脈)のからっ風の当たる国、つまりクウエ ート、サウジアラビア、バハレーン、カタールと、インド洋の風を受けている国(つまりUAEとオマーン)の二つに分けて見ている。前者はつき合いにくい面があるが、後者には親しみが持てる。

インド洋の風を受けているUAEとオマーン、この2か国が緊密であることはとりわけ喜ばしい。経済的にも、マスカットに本拠を置くオマーンーUAE投資会社の成功、各種の共同プロジェクトの進展などを大いに期待したい。

イエメンで南北の軍事衝突

・27日(水)

今日、イエメンの首都サヌア近郊で北と南の軍隊が衝突して死者が出た、とのこと。副大統領が分離を画策しているとして、サレハ大統領が強く非難したことに腹を立てて南の軍隊が10台程の軍用車で北の軍隊を攻撃したらしい。おおごとにならねばよいが。

・28日(木)

今年は例年に比べて涼しい、というのがおおかたの印象であった。だが、ここ1週間ぐらいでぐーんと暑くなってきている。次女のお産でまもなく日本に一時帰国する妻は「マスカットはいよいよ夏ね、もう40度は超えているわね」と言っていた。本日の新聞の気温欄によると、昨日マスカットの最高気温が今年初めて40度を超えた。

ちなみに新聞発表によるマスカット(シーブ)の最高、最低気温をたどってみると、各月初で1月は25度と18度、2月は26度と19度、3月は28度と18度、4月は34度と21度、それが本日は41度と25度となった。いよいよ真夏の到来である。

それにしても今年は雨の少ない年であった。今年に入ってまとまった雨はマスカットでは皆無で、内陸部でも同じ状態である。あちらこちらで雨ごいの行事が行なわれてきたが、さっぱり効果が現われない。水不足が心配される。

勤勉なオマーンの若者

そういえば、今朝フイリピン人のメイドが「マスター、水が出ない。屋上のタンクの水も少なくなっている」と大声で叫んでいる。まずは大家の事務所に電話をして屋内をチェックしてもらった。「屋内は異常なし。問題は水道局の方だ」と言うので、「困った。電話をしてもなかなか来ないかもしれない」と思いつつ電話をすると、担当のオマーン人の技術者が出てきてすぐに係員を3人派遣して調べてくれた。「水圧が下がって屋上に水が上がらない」という。それにしてもオマーン人にしては、対応が早い。

その後、その第1次検査報告にもとずいて、すぐに7、8人からなる第2隊を派遣してチェックを始めた。導管をたたいたりしている間に、少しずつ水が出るようになった。だが、もっと水圧がなければおかしいという。

かねてから雨の少ないのを心配している私が、「水圧が下がっていると言うが、マスカットは今年は水が不足しているのではないか」などと素人議論をすると「そんな事はない。水はたくさんある」といって道路を掘りかえしてチェックした結果「水道管が古くなっている。一両日中に取りかえる」とのことで落着した。

私は、どうせオマーンのこと、しかも明日は金曜日、この工事は大分かかると覚悟をした。国王はことあるごとにオマーンの若者に働くよう求めているが、若者たちは概して働く意欲に欠ける。しかも、仕事をえり好みし、体をつかう仕事をきらう。

 念願の事務所勤務の仕事がみつかっても、能力がないため「お客さん」としてあつかわれている若者がおおい。また、それでよしとしている。はたからみると、同僚のインド人やパキスタン人のように早く仕事を覚えて働けばよいのにと思う。これには、アラブ独特の家族・親族扶助のシステムが悪い方に働いていると思える。

ところがである。この工事の場合は事情がちがった。夕方から徹夜の突貫工事がはじまったのである。第2隊のリーダーは色の黒い若者。私は肉体労働者だからどうせインド人かなにかだろうと、きいてみるとオマーン人。その指揮の下、明かりをつけて夜どうし働き金曜日の午後には工事完了。オマーンにしては、対応が迅速で的確といたく感心した。やればできるのである。国王ではないが、オマーンの若者の奮起をのぞむや切である。

ただ、あまりにも気前のよいパイプのとりかえに今度は水不足ではなく、「この地域は管を引いてまだ10年足らずのはず、こんな調子で水道管を取りかえていると、石油の値段が下がって金がないのに大丈夫かな」と今度は国の財政が気に懸かる。

・30日(土)

昨日のラジオ・ジャパンで、しかも3番目という早い順番でイエメンに武力衝突が起こり、内乱も心配されると珍しくアラビア半島のニュ−スを伝えていた。今日の新聞はそのイエメンの軍事衝突が一面トップに扱われている。

西側陣営の北のイエメン共和国と、ソビエト陣営の南のイエメン人民民主共和国との20年以上にわたる緊張関係。時には衝突もあった歴史を乗り越えて1つの国に統合されたのが、1990年の5月である。

保守派とマルキストの国との合併、北のサレハが大統領に、南のビードが副大統領となって船出したが、合併、特に軍隊の統合の失敗が人口1千3百万のアラビア半島最貧国をどう治めて行くかの争いを激化させた。

1年前の総選挙でサレハの改革党とビードのイエメン社会党の連立内閣が誕生した。だが、1993年3月に、ビードがサヌアでの副大統領就任を拒み、それ以来アデンに留まってきている。イエメンは湾岸戦争の時にイラクを支持してやや国際的には孤立している。最近ヨルダン、エジプト、オマーンが懸命の仲介をおこなったものの、成功せず今回の軍事衝突にまで発展してしまった。

特にオマーンは、昨年領土を譲ってまでイエメンとの間で国境協定を締結して良好な関係を保持しており、人的、歴史的、文化的にも近い隣国の動向は他人事ではない。必死の仲介をして来たのに残念な結果となってしまった。

アル・ブスタン・パレス・ホテルで3億ドルのローンの調印式が行われた。借款を供与した銀行は全部で48行。19行が地域のアラブ銀行、15行が欧州銀行、米国が2行、日本が10行、ニュージーランドと韓国が各1行となっている。これで今年のオマーン財政の穴も埋まったといえる。

オマーンの財政運営は着実である。1981年に「一般積立金」を創設して、石油収入の10%を別途に積み立ててきた。その後、石油価格が18〜20ドルの時には、さらに石油収入の7・5%を、20〜22ドルの時には10%を積み立てる「特別資金」を設けている。つまり、石油収入を全部使わずに、最初にあるパーセンテージを天引き貯金をしているのだ。今年の財政の赤字部分は、ここからも補てんできる。決して華美に流れることはない。

マスカット郊外のルセイル工業団地の向かい側に、かまぼこ型の建物が並んでいる。この中には、非常時用の食料が保存されている。イラクがクウエ ートに侵攻した時には、国民が動揺して、買いあさりに走らぬようこの中の食料をテレビで放映した、という。食料、資金のオマーンの危機管理体制は万全なのである。