完全なものを書かないための書

   −中村文昭『文学の彼方へ 人間が宇宙人である魂の系』を読む
小柳安夫     


ドストエフスキー、宮沢賢治、ランボー、そして埴谷雄高。世紀を超えて文学史上に燦然と輝く、この偉大な4人の作家についての論をまとめた、中村文昭の新著が出ました。『文学の彼方へ 人間が宇宙人である魂の系』(06年3月、ノーサイド企画室刊)です。

中村は、1991年の夏から2002年の秋まで、「江古田文学」誌上に、「カラマーゾフの沈黙」(91年夏〜93年冬)、「無感動の書 銀河鉄道の夜とともに」(94年秋〜96年冬)、「物質のランボォ」(97年夏〜98年秋)、「余白論―埴谷雄高と「虚体」」(99年冬〜02年秋)を断続的に連載して来ました。それら10年余に及ぶ成果が、このたび600ページの大冊となって、われわれの目の前に届けられたわけです。

「これら四本柱を一つの文学的な思考で研磨したものの結果が『文学の彼方へ』という書物になったということか……」と、あとがきで中村は書いています。「この書物の中で浮き沈みしている一条の光、それは文学の魅力・魔力だと想う」

私は雑誌掲載の折々に、これらの論を読んでいましたが、やがてそれらがこうして一冊にまとまるべきものであるとは、当時は不覚にも気づきませんでした。

40歳代半ばから50歳代後半にかけての中村は、この4本柱の論文で、果たして何を書き継いでいたのでしょうか。このたび、これらの論を再読して、次のような一節に、私の目は引き付けられました。

「ランボォはそうしたじぶんの命、業に一切の責任をとろうとしなかった。かれの物質的理性は、細部から全体へ、虫の息から銀河宇宙の息まで冷徹に透視するものなのだが、その理性が何であり、野性としての命(女王コウモリ)がどういうものなのか? そして、それが理性自体とどう関係しているのか、なぜかかれは分析しようとはしない。おそらく、この無責任は、かれの物質的理性の徹底からくるのであって、その不徹底からくるのではないことが肝心であろう――あたかも、万物を照らす太陽がみずからを照らすものの有りや無しやと問うことがないように……」(「物質のランボォ」、P230)

あるいは、次のような一節にも。

「ランボォとてこの「海」という文学にかつて酔いしれ、魂の救いを見つけたことは否定できない。しかしかれは文学の器を呑みこんで余りある何かに常に渇えていて、文学の枠をはずし、文学を過剰な何かに誘拐した。そうした魂の傾向がどこからくるか、かれは熟知していた。16歳で、文学に目覚め、文学を追い求め、ついに見者の思想を手に入れたとき、つまりは物質的理性の人(宇宙人としての人間)となったとき、かれは文学そのものを追い越してしまったのだ」(同、P268)

以上2つの引用は不世出の詩人、ランボーに関する文章からです。ここで中村は、数々の傑作を書いた後、わずか20歳で詩作を捨てて貿易商人となったランボーを「物質的理性」の人、かつ「無責任」の人と呼んでいます。

これまで数え切れないほどの人たちが、ランボーの詩人から貿易商人への転換について書いてきました。しかしその転換に対するランボーの責任論は、今まであまり聞いたことがありません。

中村は、その責任問題に触れます。ランボーが徹底して物質的理性の人だったからこそ、自分の業に責任をとらなかった、否、責任を取るという行為を追い越してしまった、と。これは、文学かビジネスかの単純な二分法をはるかに凌駕する指摘だと言えます。

ランボーだけではありません。中村は、埴谷雄高の代表作「死霊」に関しても、こんな注目すべき指摘をしています。

「埴谷は白紙の中に゛かつても今もない完全なるものを゛創造するんだと悩んでいたわけですが、僕の文学的思考から言うと白紙の上にインクと文字で創造するものは完璧に不完全な美の「余白」をもつものでなければならない」(「余白論―埴谷雄高と「虚体」」、P358)

「完璧に不完全な」という一節が効いています。中村は、この指摘を次にこう言い換えます。

「埴谷は白紙に完全なものを書こうとしました。しかし僕の文学的思考から言いますと、逆で、完全なものを書いてはいけない、ということです。実際、完全なものは書けない。だから人はいつも完全なものを書いたふりをするのです。完全なものは不完全な肉体一つを通して、リルケの言う「美」としてその「余白」ににじみでてくるのです」(同、P358)

中村が600ページを費やして描きたかったことが、ここに集約されています。そこから中村は画家、レンブラントに目を向けます。

若くして最高の技術を身につけ、数々の傑作を描いていきながら、それらが結局「絵に描いた餅」に過ぎなかったことを自覚していたレンブラント。彼の姿は、まさに自らに責任をとらなかった物質的理性の人、ランボーと二重写しになるでしょう。もちろん、描けないものを命がけで描こうという情熱に生涯とりつかれ、やがて未完成のまま死を迎えたドストエフスキーしかり、宮沢賢治しかり、です。埴谷雄高こそは、まさにそこへたどり着こうとしながらたどり着けなかった一人であったでしょう。

若いころ、詩人として、批評家として、自らの責任において完全なものを書こうとしてきた中村は、40歳代の半ばを迎えたときに、まさしく文学そのものを追い越してしまったのかもしれません。

50歳代から現在にかけての中村の歩みこそ、完全なものを書かない、つまり描けないものを命がけで描こうとする壮絶な闘いでした。思えば、絶対に完全なものを表すことのない舞踏という肉体的パフォーマンスへの中村の傾倒ぶりも、時期を同じくして強まってきたような気がします。ここにその闘いの記録があります。(06.8.21記)



●こやなぎ やすお
 1958年東京生まれ。日本大学芸術学部文芸学科卒業。安部公房、つげ義春ら作家研究のほか、
 近年は新聞、雑誌、書籍、広告などに関するコラムを執筆。株式会社読売情報開発勤務。




えこし会の扉へ        『文学の彼方へ』書籍案内