吉田美和子さんからのお手紙 2006.07.10


前略

『夏の庭』、美しい詩集をありがとうございます。わたくしにまで送って下さったご厚意に感謝します。鯉渕という素敵なお名前が中右に変わっていてちょっと残念でしたが、もちろん中右も雰囲気のある名前です。私なんかは、なんとなく旧姓のまま吉田で書いていますが、戸籍姓と混用の日々はこんぐらがって厭になります。名前などみんな脱いでしまいたい、そのために詩など書いているのに、発表するときには署名をしなくちゃならない、その違和感から、いつまでも逃れられない感じです。

  川の中で
  兄の眼玉が暮らしているのだと思う

冒頭のこの圧倒的に美しい二行によって、この詩集は位置づけられています。きらめく夏の光、川瀬のさざめきが、息詰まる緊迫感で詩集全体を覆っている。「江古田文学」や「えこし通信」で拝見していた詩もあるのですが、詩集にまとめることで詩はその意味を発現するのだと思います。詩が詩人を核とした空間として、世界として見えてくるからです。頁を閉じても夏の庭の残光が(冬の詩もあるのに)紙扉を通してほの見えて感じられるということは、素晴らしいことです。

私が好きなのは「夏の写真」「すみれ色のくつ」「遺言」です。読みながらこんなことを思いました。…うつくしい、けれども閉じている。どうするのだ、どうやって生きてゆくのだ…、と。幼年の夏の庭を振り返る鋭い視線。その光はどんなに苦しく甘やかに私たちを誘おうとも、私たちは明日をどうすればいいのだ、という解決の付かない葛藤です。そういえば私も二十代の最初のガリ版詩集は『望郷論』というタイトルでした。なぜ人は宿命のように郷愁に脅かされるのか、それを振り切って歩み出そうとする風圧だけが、生きる実感だ…みたいな、どうどうめぐりの気負いの自閉症がテーマでした。

だから最後の「遺言」を読んだとき、私は本気に泣いてしまいました。人は幾度も言挙げに向かって登り詰めたり失墜したりしながら、これが本当に切れるのか、触れば血を噴くのか、竹光の言葉を振り回しながら悪戦苦闘する。だから、あなたが最後の一句に「決めた」という言葉を選びとった勇気に、揺さぶられたのです。

八月一日の出版パーティーには遠路ですので参加できませんが、いい会でありますよう、皆様にもよろしくお伝え下さい。今週末所用で東京に出ますけれども、この手紙に書いたことのほかには会ってお話することもありそうにありませんので、とくに連絡は申し上げません。

詩集をまとめると、世界が変わります。新しい出発の土台が築かれるからです。さらに遠くまで歩いていって下さい。ありがとうございました。
草々

2006.7.10  吉田美和子

鯉渕史子様






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