『夏の庭』を読んで


高橋 文   


中右史子の詩集『夏の庭』を読んだ。彼女の、初めての詩集である。そして、今まで本名の鯉渕史子として、言葉を紡いでいた彼女が、中右史子という一人の詩人になった。そういう詩集である。ページをめくると、誕生という言葉にまさにふさわしい、柔らかく温かい、たくさんの言葉が目に飛び込んでくる。

詩集は、小説や論文に比べ、たやすく読むことができる。しかし、それは単に文字量が少ないというだけの話だ。言葉の重さを感じようとしたら、一読して読んだなどとはとても言えなくなる。私にとって、『夏の庭』もまた、そのような作品であった。

私が初めて、この詩集を読み終えた時に思ったのは、「もう一度、読まなくては」ということだった。その後、何度も読み返したけれど、詩集はその都度、私が掴みかけた印象を変化させ、新しい顔をのぞかせる。この詩集はいつまで経っても、私に、本当の色があるのかさえも教えてはくれない。初めて読んだ時、私はこの詩集の中の言葉に優しさを感じた。けれど、二度目に読んだ時は鋭さを感じた。どちらが正しいのか。おそらく、答えは出ないのだと思う。正確に言えば、どちらも間違いではないのだ。読むたびに感じるものは、全てがこの詩集が含んでいるものなのだろう。

そんな訳で、私はまだ、『夏の庭』という詩集を読んだと言えるか自信がない。けれど、今の私にとっての『夏の庭』を、これから少し考えてみたい。

まず、私はこの詩集を、一つの言葉をキーワードとして挙げて進めてみようと思う。手がかりとする言葉は、タイトルにもある、「夏」である。「夏」という言葉は、この詩集の印象に大きな影響を与えている。目次を開くと、「夏の写真」、「地下室の夏」、「夏の庭」…と、夏の季節の作品が多い。しかし、一方で「冬の水槽」、「雪影」といった冬の作品もあれば、「すみれ色のくつ」のような春の景色を含んだ作品もある。では、これらの作品が、ちょっとした少数派として全体から浮いてしまっているのか、または脇で小さくなって居心地悪くしているのかと言うと、そうではない。夏を描いた作品と同じほどの存在感を持っていて、さらに「夏」を取り込んでさえいるように、私には思えるのである。ここで『夏の庭』における「夏」について触れておきたい。私がこの詩集の中に感じる「夏」は、季節としてのそれだけではない。それは、「夏」が保有している、ある一つのイメージである。「夏」は躍動感や明るいといった印象が強い。しかし、光が影を作るように、一つのイメージは正反対のイメージを作り上げてもいる。私がこの詩集に感じるのは、まさに「夏の影」なのである。強い日差しに照りつけられて、じめじめとした湿気を帯びた自分自身。そして、夏休みの午後の誰もいないところへ一人置かれた時の、言いようもない孤独感。このようなイメージが『夏の庭』という詩集をとても切なくしている。つまり、この詩集のタイトルである『夏の庭』が示している「夏」は季節ではなく、淋しさという一つのイメージでもあるのだ。

「冬の水槽」にこのような一節がある。

  死んでいった生き物たちの分だけ、がら空きになった水槽は、
  ふたもなしに庭先へ置かれている。

また、「雪影」にはこのような一節がある。

  窪んだ雪に
  足あとをおいたまま

これらに共通して感じるのは、存在の痕跡だけを与えられた空間のやるせなさである。この空虚感が、詩集の「夏」のイメージと呼応する。そして、タイトルも内容も冬であるのに、あるイメージとしての「夏」の内に反発することもなく溶け込んでいる。

不思議なもので、一篇の詩は一つの作品として読むか、詩集に収められて読むかで、同じ作品でも、その表情をガラリと変える。詩集『夏の庭』の作品もまた、詩集の中にある時は、「夏」という、季節ではないあるイメージによって、つながり存在しているのではないだろうか。



たかはし あや
  1981年東京都生まれ。
  日本大学大学院芸術学研究科博士後期課程在学中。
  



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