書評『文学の彼方へ』−竹内敏喜さんの書簡より−


過日は大変たのしい夜をありがとうございました。いろいろとご迷惑をおかけしたことと想像しております。なにとぞお許しくださいませ。

『文学の彼方へ』、今、「カラマーゾフの沈黙」を読了いたしました。とても明快な論旨で教えられることがたくさんあります。物語のなかに、様々な対照性があり、そのうえで作者により、あのラストシーンが描かれた理由とは何なのか。例えば父と子の関係にうまれる悲しみを、耐えるための永遠の思い出なのでしょう。それは個人としての結論でしかなくても、大切な他者に向けられたメッセージなのであり、同時に文学の価値を信じることなのだと思われました。

論文では個人的に興味を持ったものとして、P44をふまえてのP48のフィクションがあります。それでもなおキリストをみつめる目があってP53の心の問題へと成長する気がしました。乱文ではありますが、とりいそぎの感想をお送りせていただきます。精神と精神の緊張ある出会いをかみしめながらつづきを読ませていただきます。ありがとうございます。

2006.6.15


「物質のランボォ」読了いたしました。P193のご指摘は大変心に響いてきます。映画「アマデウス」の後半、ベッドに横たわり「レクイエム」を創造していくモーツァルトの姿が見えてきました。引用されている詩の“人の世に別れをつげていた。”の言葉の強さはものすごいですね。

また、P279の「物質的理性がその源泉で神と交錯せざるを得なかった」との言葉にもいろいろと考えさせられました。例えばラカンの発想などを想起しながら理解したことは、聖書における「バベル」の話と、イエスの語りかける対象(ひと)のことです。言葉が通じなかったり、耳にしていても学ばない相手がいる一方で、言葉は消えずに残る不思議さ。そういった彼方としての様子を作品化できたランボーについても、やはり語るのは難しく、逆説的に深まってみえるので、いつまでもとらえようと努力してしまう詩人のようです。再びの乱文、お許しください。

2006.6.16


「無感動の書」「余白論」、読了いたしました。本当のことを申しますと、宮沢賢治の文体が苦手なので、文庫本で手に入るものを一通り読んできたにすぎません。また、埴谷雄高の『死霊』は一読したことさえなく、対談などから彼の思想の一端を覗いただけでした。そのため、論文の良い読者にはなれそうにないのですが、御礼の気持ちを込めながら、感じたことなど、素朴に述べさせていただきます。

たくさんの資料を掲げることで、いずれの論文も「死者」の彼方をイメージ化し、最終的には「命」の現在を探る試みなのでしょう。そのなかで「理性」と「信仰」の関係などが確認されており、「賢治論」に関して述べるなら、論者の詩人への共感の深さをふくめて、結論はとても明快な気がしました。一方の「余白論」の思想の大きな達成点としては、510ページくらいからの「愛」の説明がポイントになっているように思われます。そのうえで548ページの「認識」のこと、586ページの「ただの夢の人」のことが、現代的課題として前面に掲げられていると理解しました。

今回、一気に著作を読ませていただき、次のような二点を中心にして、個人の置かれた立場の意味を、文学的にあらためて考えたりしました。「誰でもない誰か、としての非人称性」は、宇宙の様子を、そのままパッションとすることで、さまざまな意志の形を見せてくれるということ。そして人が人として、コミュニケーションの手段に言葉を用いるとき、言わなくても理解しあえる相手と、言っても理解しあえない相手がいるということ。

ところで最近、詩の読み方が変わってきました。その変化をひとことで表現すれば、正確に解釈しようとする気持ちが薄らいできた、と言えるかもしれません。作者の意図、単語の意味作用、作品全体の物語性、そういった面にこだわる必要を感じなくなったようです。それならば、今どのように詩とかかわっている自分があるのか。例えば読み手の内面に、生成の神秘を呼び起こしてくれる一節を求めていると、答えられなくもありません。その一節のために、作品の全体が効果的に整えられているなら、良しと思います。さらには、細部が未整理なままでも仕上がったとする技量をこそ、ポエジーは理想としてきたのだろうと考えたりします。未完成という完成、それこそが読者という立場に対し、もっとも大切な問いを投げかけている姿ではないかと。

毎度の駄文、お許しくださいませ。      不一

2006.06.21  竹内敏喜


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